働くのもともとの意味は
今日は、午前にICLの検査があったため年休を、午後は進路指導に関する外部研修に出席してました。学校に行かない日をここで作れるとは。
なんなら「丸1日休みにできたら」と思ってましたが。
本来であれば夏休み中にやるべきだったのですが、今さら「これやりたい」が芽生える。そんな大したことではないです。
2つあって、1つは、
以前もトライしたのだけど、
「1日中、ネカフェで過ごす」です。
好きな漫画を心ゆくまで読みたいです、おいしいソフトクリームを頬張りながら。
もう1つは、「ただ、何もしないで家で過ごす」こと。
ダラダラするんです。何も計画を立てず、そのときに思い立ったことをやって、飽きたらやめる、またなんか思い立ったらやるを繰り返すだけ。
でも、基本は何もしないのが望ましいです。
おそらくこれができるのは、
12月の下旬、つまるところ、2学期終了後ですね。
今から待ち遠しい。
そうそう、今日の研修では、企業の方々のお話を講演会という枠組みで聴講しました。
その中で気になったのが、「働く」の原義です。
「働く」という言葉が生まれる前は、
「傍楽」だったらしいです。
「他の人を楽しませる、喜ばせる」がもともとの意味だったそうで。
エンターテインメントがまさにそれですが、どの職業にも通ずる考え方です。
テクノロジーで、演技で、スポーツで、食べ物で、デザインで、人を喜ばせる。
改めて、自分が就いている職業で、「人を喜ばせることができているか」を考えてみる。
まあ、全員をとは言えないし、「あの先生うっさいなぁ」と思われているかもしれないので、自信をもって「YES」とは言えないですね。
でも、生きていく上で大切なことは、提供しているとは思ってます。
それがしっかり届ているかどうかはわかりませんが。
届いていたとしても、
「届いたよ」と返事が来るのは、5年後とか10年後とか、そのあたり。
それが教育なんですけどね。
多様性のある学校が理想だよね
さくっと手短に書くけど、ぼくが理想とする公立学校は、月並みだけど、「多様性が重視されている学校」です。
「東大O人以上合格」
とか
「難関大学輩出といえばうちの学校」
とか、
そういうスローガンを掲げている学校はむちゃ嫌いだし、心底ダサいとさえ思う。
東大進学もいるし、マサチューセッツ工科大学進学もいるし、専門学校進学もいるし、就職する子もいるしのような、とにかく、各々が自分の人生を豊かにするために、進学先が本当の意味で多様な学校、そしてそれが当たり前とされている校風・文化がベースにある学校を目指したいなんて思う。
むしろ、そうじゃない学校の価値が、ぼくにはわからない。
進路以外でも、
いろんな人がいる学校、すっごい憧れる。