何かを学ぶのにも代償がある

小4の頃、突如火遊びがマイブームとなった。

花火をするときにライターを使う親を見て、
「ライターってこうやって使うんだなぁ。これでなんか面白いことができたらなぁ」

受動的に得た知識という「資源」から、何かを創出しようという「プロセス」までは、今思えば我ながらうまく渡れたと思う。

まさに、何かが心に「火をつけた」とでも言うのだろうけど。

でも、「プロセス」から生まれたものは、
日本や世界に革命的な何かではなかった。

自分にとっての
火を使うということの責任感とは?
であったと記憶している。

許可なしに火を使うのは禁止されていたが、親の目を盗んで、当時はティッシュを台所等で燃やしてその燃える様子を見て癒されていた。

しかしある日、不覚にもぼくの手を瞬時に火傷させようとティッシュは火を大きくあげた。

あっち!

とそのティッシュを落としてしまったのだ。不幸にも床に敷いてある絨毯に。

すぐに水をかけたら消火できたが
絨毯の角の部分は丸焦げになってしまった。
親にはなぜかその件については、バレていない。
しかしその焦げを見るたび、
「ぼくは大事な家族の家を燃やし尽くしてしまうところだったのか…」
と危機一髪による罪悪感から、
火に関しては細心の注意を払っている。
後遺症として、しっかり元栓を閉めたか、ガスボンベは抜いてあるか、など家を出る際、病的なまでに必ず確認している。


何が言いたいかと言えば、
大事な心得を得るには、
何かを経験させる必要があるが、
あるいは失敗させる必要があるけど、
ぼくのような大きな失敗からでないと学べない人もいる。周りの人をドン底に落としかねないような失敗からしか。

ぼくは未来の息子・娘、または生徒に
そういった子育て・教育ができるか、
自分に降りかかるかもしれない不幸に耐えられるか、今から恐れている。