奇癖から考える授業のあり方
ぼくの習慣というか奇癖に、
毎晩怪談聴きながら眠る
というものがある。
友達に話せば引かれるが、仕方ないのだ。
ぼくにとってそれが無いと眠りの質が下がるのだから。
どうやらぼくのお母さんも数年前からその奇癖を始めていたそうな。遺伝とはすごい。
それは置いといて。
ぼくの眠りの質が下がる条件に、
同じような内容の怪談を聴く
がある。
もちろん故意的に同じ内容の怪談を選んでいるのではない。偶然的に奇遇的に事故的に選び、聴く羽目になっているのだ。
途中止めて、新しいのを聴くのもいいのだけれど、それまでがすんごい手間がかかる。
結局はうんざりしてしまって、気分が良くないまま、気づけば眠りについてしまうことが多々ある。眠りにつくという目的は達成できるのだけれど、その過程が気持ちいいものではない。
つまるところ、
怪談には(内容的分量に)限界があるようだ。
同じように、
授業の中に教師が散りばめるネタ・仕掛けにも限界があると思う。
優れたセンスのある教師が、板書仕掛け、言葉仕掛け、あるいはペア/グループワーク仕掛けを授業の中でしたところで、複数の生徒は気づいてますよ。
(これ、どっかで見たことあるな…)
(同じネタまたやってる〜)
って。
そしてその子たちは、怪談リスニング睡眠法を実施してるぼくみたいに、きっとこう思ってますよ。
あ〜あ、うんざり。
この時間無駄だなぁ。
って。
授業の中で立てた目標を
とりあえずは達成することができると思います。
とりあえず眠ることができるように。
でもその過程が、果たしていいものなのだろうか。
そうやって教師の演技に飽きる生徒を大量生産しちゃう前に、もう生徒に内容も全て任せちゃう授業(『学び合い』とか)を実施した方がいいですよ、と自分の奇癖からいろいろ考えてみる。