伝えることの難しさ
『学び合い』はどの教育方法・授業方法よりも優れていると思う。
断然マシだろうな、って。ぼくはそういうスタンスなのだけれど、
でも、
「なんで『』が従来の教育に比べてマシなのか私にはわからない。説明してくれ」
なんて言われたら、ぼくはきっと論理立てて説明できる自信がない。
いや、厳密には不可能ではない。
相手が友達とか自分がよく知る人物であれば、できると思う。
感情や思いが先行してしまって、ちょっと乱暴で汚い言葉を使ってしまうけれど。
でも、せっかく尋ねてくれた人に、気を害さないように説明できるんかお前と言われたら、YESとお返事はできません。
授業検討会という記者会見みたいな場で、しかも、(友達レベルまで)相手のことをわからない人が多くいる状況で、「応答よろしく」なんて言われたら、結構厳しい。
ぼくらの頭の中にある「当たり前」という大きくて少し変わった概念を、相手の思考回路入り口を通過できるように限りなく粉々に砕く必要があるのに加え、親しい関係性ではないゆえに、「敬語」という異質でデリケートでもはや日本語とはまた別の言語を使ってコミュニケーションをとらなきゃいけないし。「感極まってつい..」という力説はあまり良い印象を与えてくれないし。
たぶんそれができないうちは、まだまだまだまだ青二才なんだなあ僕は、と脱力してしまう。
昨日は、初めて授業検討会という場で質問を受けそれに答える立場になった。
授業者ではないけれど、『』について聞かれた。
まさか現場出る前にこんな経験をさせていただけるなんて思ってもいなかったが。
まあ、上記のように、課題が見つかったわけですが。
やっぱり場数だね、こういう問題というか弱点を打破するには。