歪んだ感情が育った部活

 

小学校の時の部活は、顧問の先生に怯えながら野球少年を演じていた。

ミスすれば怒鳴るし、忘れ物すれば怒鳴るし、指令を聞かなければ張り飛ばされるし。

怒られないように、日々怯えながら、ガチガチ状態で週5~6×3hrsの部活を三年間耐え抜いた。

 

その顧問の車は、黒に近い紺のセダンでした。

今でも、たまにそういう系の車を見るとドキッとする。

玄関に隣接してずらーっと横に教師用の駐車場があったのだけれど、それは野球グランドから見える。

 

もし、玄関から離れたところに車を停めている日があれば、

「あぁ、今日は駐車したところから玄関に向かうまで結構歩く羽目になってるから、きっと機嫌が悪いだろうなぁ」と勝手に落ち込み、顧問が部活に登場するまでゲッソリしていた。

 

雨が降ればグラウンドはゲジョゲジョ。学校の廊下を走るか、部活が休みなので、友達とハイタッチしながら大いに喜んだ。

 

ミスをしたときの怒鳴りを軽減させるために、わざと転んで痛くもないのに痛そうな演技を顔を含む全身を使ってアピールし、「痛いけど頑張るぞ」感を出して、顧問に「まあ、こいつは痛そうにしてるから大目に見てやるか」という手加減を誘っていた。

 

顧問が出張等で部活が休みとなれば、代わりの先生が来るのだけれどルールわからないから、何も気にすることなく部員だけで楽しく野球をした。

 

 

 

まあ、何が言いたいかといいますと、

なんで忖度部活しなきゃいけないの?

部活って誰の何のためのものなんですかね?

 

ってのを、小学校の段階で気づいていればよかったなあ、と思う。

自分が好きで好きで始めたスポーツを一人の男にぜーーーんぶ管理されながらやらなきゃダメだったのは、今でも思う、なんでやと。

 

伸び伸びとできる環境の中で、友達と楽しみながらも切磋琢磨して、

野球をしてみたかったなあ。

 

小学校の部活で勝手に養われたのは、

「今日は怒られないようにしよう」という失敗への恐怖感と、

「今日は誰が怒られるかな」という不気味なワクワク感

二つの歪んだ感情だ。

 

現場にたったとき、部活命な学校に赴任しても、

今と同じように、部活のあり方に不満を持ち続けているぼくでありたい。