モノオモイと教育

 

使用後、本来は捨てて良いけど

使えそうなゴミってありますよね。

 

コーヒーの粉が入ってた瓶とか、

お菓子が入ってた缶とか、

あとはー、ワインボトルとかも。

 

むかし、

「え、なんで捨てるのさ!」

と、そういうゴミを家のごみ箱からこっそり拾って洗って自分なりに工作して使ってたことがある。

お母さんにはよく

「やめなさい」

と叱られてました。

 

「勿体無がり屋」、

というか、可哀そうに思えてしまうのです、

ただのゴミ・モノさえも。

 

うまーく使えば有効活用できるのに!

ぼくが今、グレードアップさせてあげるからね!

 

そんな「モノオモイ」な性格は今は昔の話、

 

といいたいところですが、なおも若干健在。

流石に捨ててあるのを拾いはしませんが、

捨てるべきものを捨てないで使ったりしてます。

性格なんてそう簡単に変わりません。

 

そういう性格なもんだから、

もしかしたらですけど、

ここ数十年でみんなに(見)捨てられて、ゴミと化した

教育プランとか教育方法なんかを、

過去から拾ってきそうだなあ、なんて思ってみたり。

 

本来は、考え方さえ変えれば、まだまだ有効活用できるものだって

あったはずに違いない。

もう用なし、用済みだから終わりねって

消費期限が有り余ってるのを捨てられたものだってきっとある。

 

そんな考え方を、してしまう。

 

 

数年後、あるいは数十年後、教師のぼくは、

「ねえねえ!これどう?」

と、過去から掘り出した教育プランを自分なりに味付け(考え方の改変)・減塩(アウトソーシング)して、見たことのない宝の地図を手にした海賊の船長のように、革命的な教育プランをみんなの前で無邪気に熱弁する僕がいたとして。

 

そんなとき、

「やめなさい」とお母さんのように一蹴してくるか、

「お、いいねぇー」と仲間が興味を持ってくれるか。

 

それ以降は、想像がつかない。