空き瓶教育をやめる

 

粉を使い切ったため空になったネ〇カフェの瓶を、

本来は捨てるべきなんですが、アメやチョコを入れるお菓子ボックスとして再利用しています。

ぼくは、「モノオモイ」

kohdai-0321.hatenablog.jp

な性格なもんで。

 

昨日、瓶のお菓子がちょうど空になったので、

100円ショップへ行って3袋、それぞれ味の違う別の種類のアメとチョコを購入。

ひとつはミルクキャンディで、ひとつはフルーツ系のアメ、もうひとつはチョコ。

 

研究室に戻り、机にある瓶の蓋をクルクル開けて、一袋ずつ中身のアメ粒・チョコ粒たちをドバーと無造作に投入。重力に任せて詰めていく。

「イイ感じ。映える。」

なんて思いながら、

「さて、さっそく食べてみようかしら。まずはフルーツ系のアメを..」

と手を突っ込もうとしたら、ガラス瓶のため見えた。

 

目的のものが一番下にあって、

手に入れることができない..!

 

投入前は何も意識してなかったため、まさかフルーツ系のものが食べたくなるなんて思ってもみなかった。

結局、欲しくはなかったけど口が寂しそうだったので

仕方なくチョコを頬張った。

悪くはないけど、んん~というかんじ。

 

欲しいものが欲しいときに手に入らない

というこの不自由さ

 

公教育と似てる

 

勝手に空き瓶教育と名付けよう。

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しっかり無理やり無駄に段階を踏ませてから

やっとこさ一つの単元のゴールに向かう各教科のあのプロセス。

 

「あら、俺が好きな分野ないなあ。ま、仕方ないか。」

と、意欲なしの形骸化された学びをする少年。

 

「私は今、別にそれわからなくてもいいのよね~。

それよりも今はここの単元・分野が緊急で必要なのになあ」

と残念がる少女。

 

こんな意識高いことを言う子どもはそうそういないでしょうけど、いなくもないわけじゃないですか。なんなら、こんな窮屈な教育がそのポテンシャルを蝕んでいるんじゃないかとさえ思ってますけども。

 

もっと自由に、

「今日はこれがいい!」

「ある目的達成のために、しばらくはこれで行こう。」

と大きなカゴから子ども自らが、自由に拾って選択できる教育の実現を目指すぼくとしては、今の教育が息苦しいことこの上ない。

 

  • 必要と感じたなら、学ぶ
  • 一人じゃ無理なら、協力

 

ぼくの考える教育はそんな感じ。

 

上から順番に順番に好きでもないものを拾い上げていくんじゃなくて、いろんな方向から目的のものを好きなときに掴みとれる、そんなのがいいよね。