尊敬には消費期限がついている
「尊敬とは何?」
ともし聞かれたならば、皆さんはどう答えるでしょうか。
ぼくにとって、それは、一言で言い表すとすれば、
賞味期限のようなもの
です。
「ちょっと!なんか失礼じゃないその表現!」
と思われた方、落ち着いてください。誤解なんです。
と、言いましても、火に油を注ぐような言い訳をここからつらつらと書いていくので、今、ちょっとストレスフルな方は自粛していただいて結構です。
ぼくが誰かを尊敬する条件は2つある。
1つは、「対象」です。
「自分ができないことを簡単にできてしまう」
ような人がそれにあたります。
レジのマシーンを巧みに扱うことができたり、ベースでずっとチョッパーできたり、サッカーのリフティングを100回連続できたり、英語を日本人訛りのないネイティブ並みに操れたり、マニュアルの自動車を乗り回してたり、ダンスをたった30分間練習すれば完璧に踊れちゃったり...
この中にもし、「僕/私、できるのあるやん!」というものがあれば、あなたはぼくの尊敬の対象には入っています。
(とは言っても、例えば、スケボーがぼくよりも抜群にできたとしても、
対象には入りますが、何とも思いません。
なぜなら、それができようができまいが、ぼくにとってはどうでもいいことですから。
例外あり、ということですね)
でも、条件つきです。
それが2つ目の、「期限」です。
「まあ、いつかあなたを追い越すつもりでいますが。」
という感情が、どうしても付き纏ってしまうぼくの悪い癖。
で、死に物狂いの努力の末、それでもぼくが追いつけなかったなら。。
それで初めてあなたはぼくの「尊敬」に入ります。
でも、そこから死に物狂いで練習して、その「対象」をぼくが追い越したら。
その対象は「尊敬」というラベルを僕の中で外されてしまいます
だから、それまで指示されて「はいYes喜んで」状態だったなら、
「いいえYesすみません」の状態になるでしょう。
なぜなら、その対象の能力を手に入れてしまったからです。
自分の中にすでにあり、それをあとは自分色に育てていけばいいだけなので、もう尊敬する必要はないのです。
何が言いたいかというと、
尊敬される人って、
いつまでも「追い越されない存在」であるべきだと思うんです。
確かに、
「あのときご指導いただいたから今の自分がある」
「そしてそれは不変」
=この人をずっと尊敬しよう
となるのはわからなくもないのですけど、それじゃダメな気がする。
それって、団塊世代付近のあんまり能力がない部長クラスの人が
「俺も昔はよ~」
と過去の栄光になおもすがって威張ってるタイプと変わりないんです。
ぼくが尊敬する人は、
時代・状況・年齢関係なく、いつでもぼくの前を走っていて、なかなか追い越そうにも追い越せない人なのです。
消費期限がやたら長い、梅干しとか乾パンみたいな。
ちょっと違うか。
となると、
「追い越された存在」=生肉とか刺身のような消費期限が短いもの
ってことですかね。
違うか。
まあ、「尊敬」のラベル剥がれたからといって、
「追い越してしまったからその人を粗末に扱う」
というわけではないですからね。
バスや電車で例えたら、
特別運行→通常運行になるだけです。
悪しからず。