忘れられていくもの

そういえば、

火を起こすために、手で棒をグリグリ回して藁に引火させる作業はもうせずに

ライターでカチッと手軽に火を生み出せるようになりましたね。当たり前か。

 

そういえば、 

最近は、本という紙媒体ではなくkindleという電子機器媒体で物語を読むようになったぼくは、めくるという作業をせずにスクリーンの端をタップして次のページへ移り読み進めていくようになりました。そりゃそうか。

 

そういえば、

それに付随して、何かを読んでいたり見ていたりしていると、突如確認不能な何かが出てきたとしよう。自分の顔に近づければいいだけなのに、

ついつい日頃の癖で人差し指と親指でピンチして字や写真の拡大をしてしまうんです、紙媒体に対して。まあこれは仕方ないか。

 

そういえば、

熱いお茶を飲むためにしなくてはいけない最初の段階であるやかんに火をつけて水を沸騰させるという大儀な工程を無視して、今ではケトルというものに水を入れてスイッチを押せばものの2分でお湯ができ、お茶やコーヒーを作れるようになりました。この時代だし、それは当たり前か。

 

今は、「そういえば」で振り返るというか過去を掘り起こせているけども、

数十年先だと、「そういえば」ではきっと上記のことを思い起こすことは困難になっていて、

そんな現象と並行して、「当たり前」「仕方ない」の山が、

そこらじゅうにどんどん築かれていってるのかなあと思うと、気が遠くなる。

 

きっと、優秀な人間なわけですから、

呼吸をしなくても生きていけるような体の構造になっているんだ。

そして、今の僕のように、

そういえばさ、と本来の呼吸の仕方を掘り返す

ナニカがきっといるはず。

 

なぜダレカではないのかというと、

もしかしたら、ヒトに対して使うダレカは

もう死後になっているだろうから。

 

ちょっと意味深過ぎましたね。

 

Siriほど不気味な内容はここに書いていないと願いたい。