誰のための最高の結果ですか?

 

「前回までは、最高の結果を残せてこれていた。

でも今回、『』でこの授業を進めていくことで、

果たして前回同様の結果を残せるのか甚だ疑問だ」

 

以前、現場の先生からこういった声を頂戴したことがある。

 

何をもって、その先生にとって「最高の結果」であるのかはわからない。

「最高の結果」かどうかの判断基準・方法が、

例えばプレゼンの出来やパフォーマンスであったとしたら、

間違いなく教師は手を加えるだろう。

自分(教師)の目指す「最高の結果」に限りなく近づけれるように、

徹底的な助言や指導が入るだろう。

 

「ここまでできれば周り(教員・保護者)から良い評価を得られるだろう」

「このレベルなら何も言われまい。とりあえず安心。」

教師が子どもに求める最高の結果は、おそらくそういうもんじゃないでしょうか。

子どもは、教師のマリオネットじゃない。

 

だからぼくは、小学校の学習発表会(演劇祭)、中・高の合唱祭や卒業式などは、正直大嫌いである。

教師陣が(無駄に)丁寧に敷いたレールの上を、ただ歩いてるだけだ。

そりゃ大きな失敗はないでしょう。

どれだけ抑えつけられるか、がキーなんですから。

 

話は戻って。

もし、以前のソレがその教師にとって最高の結果だったのであれば、

教師が思い描いたゴールを子どもたちに実現してもらうために

ゴールまでの工程で、うるさいくらいに子どもたちを

圧力で縛ってたんだろうなと思う。

 

最高の結果=教師の理想

だったのだと悟って、苦笑いをしてしまった。

 

「最高の結果」を求めるのは教師であっても、

それを押し付けてはいけない。

まず子どもたち自身が「最高の結果」を考えないと。

で、思い浮かんで、彼らが行き詰っていたなら、

圧力のない、うるさくない、強制力のない、助言等を与えよう。

 

最高の結果っておっしゃってますが、

誰にとってのですか?

 

と、当時のその瞬間、こう考えていたのに、

言えるわけもなく、ずっと感情をこらえていた。