子ども好き=教師 →ぼく「ん??」
子ども好き=教師に向ている
という方程式は、確かに間違ってはないけど、なんか違う。
というのも、
自称 「子ども好き」に限って、「何でもかんでも過保護に面倒を見るタイプ」の人と遭遇することがぼくの人生で多かったからだ。
子ども好きゆえ、そうなるのも無理はない。
だって子どもはみんな可愛いのだから。愛でてしまいたくなるに決まっている。
でも、過保護になんでもかんでも、子どもの失敗を極力排除する行動に走ること自体、ぼくはあまり良い印象はない。
それって、その子どもたちの未来を見ていないように思うんです。
確かに、失敗させることは可哀想だけど、
いずれは乗り越えなきゃいけないもの。
それを、
「可哀想だから助けてあげなきゃ。」
「今はできなくてもいい。次の年に任せよう。」
と、都合悪いものを後回しにし、「さあ!」と存分に手を差し伸べるのは、違う。
逆にそれによって、成人してから苦しむことにだってつながる。
例えば、義務教育段階でしっかり解決しておくべき人間関係形成力は、
大人になってからではなかなか習得できないし。「助けて!」と言う能力だってそう。
だって、それが必要になったときは、「過保護」で「子ども好き」な教師がそこにいて、いつも助けてくれたから。
教師として「子ども好き」であることは確かにできればあってほしい条件。
でも、その「子ども好き」をこじらせると、
子どもの不幸につながる。
教育って
難しいですね。