子どもの学びは誰のため?
アルバイト先のレストランはバイキングをやっていて、
準備の段階で何種類もの料理を並べる工程がある。
きれいに並べなくてはいけない。
同じ色をした料理が横に並ばないように工夫をしたり、
レードルやトングの取っ手の方向を全部統一させたり、
皿を等間隔で置いたり。
どれもこれも、お客様のために。
お客様が、「これ食べてみようかな」「これは気になるなあ」
と期待を膨らまして多くの料理を取ってもらえるように、
きれいに並べなくてはならないのだ。
ぼくが経験してきた今までの、あるいは今の教育も
そんなバイキングの準備段階と似ている。
きれいに統一させるというそれと。
外部の人を意識しすぎてるせいか、
やたら子どもたちの姿勢やら発言力やら、
学習意欲やら自主性やらにちょっかいを出して、
クラスとしての集団性を統一しようとしている。
外部のお客様(教育委員会・保護者・企業の方)に
「このクラスはみんな姿勢よくていいね」
「みんな発言力ありますね」
と思ってもらえるように。
だから、上記のお客様がいないときは
ビシッと子どもをしつけ上げる。
大前提として、
子ども達は料理でもなければ軍隊でもないし、
もちろん作品や芸術でもない。
見世物じゃないんです。
1人の人間です。
統一されなくてもいいじゃないですか。
「学び」への向かい方、それぞれでいいじゃないですか。
ちょっとくらい変わった方法・考え方しててもいいじゃないですか。
クラスのみんなが同じ考え方を持ち、同じ行動をする、
その統一性が美しいと思える理由がぼくには全くわからない。
多種多様でいいじゃないか。
ゴールは、一人ひとりの学びであって、それ以上でもそれ以下でもない。
なんてことを思いながら、今日はバイキングの準備をしていた。
考え事をしながらアルバイト先のルーティンをこなすようにしています。