ぼくが恐れていること
このブログの下書き保存リストを見ていたら、
上記のタイトルと
『』の派閥が内乱
という謎の文だけ書き残されている下書きがあった。
これを見つけた瞬間、
「あ~、あれだ。」
とすぐ思い付いた。
以前、場所や日時は言えないのですが、
『学び合い』はこの先、派閥ができて、
ゆくゆくは内乱が起きるのではないかと思ったのです。
流派みたいなもんができるのかなと。
ICT重視型『学び合い』
ファシリテーティング『学び合い』
とかとか。こうやって並べると、恥ずかしいけれど。。
オランダのオルタナティブ教育のように、いくつもの教育方法がうまく共存するのにはしばらく時間がかかる気がするんです。
何度もブログで言及しているが、
『』は結局は考え方。
それゆえその考え方から生まれる授業方法は多種多様。
西川先生は無駄なものをそぎ落としたシンプルな『』(ICTをごちゃごちゃ使わない、教師が過度にファシらないetc)を好む。ぼくも気づけばその考え方に惹かれていた。
でも、先生は「だからこうしろ」とは言わず、「ぼくはその方が美しいと思うけどね」に止め、そのスタンスを貫き通している。
だから、「あれは『』じゃないね」なんてことはこの二年間、先生の口から聞いたことがない。
でも、『』を勉強・実践し始めて今年で二年目になるが、
実践者の中には「あれは『』ではない」と非難し、嘲笑する者もいないわけではない。
正直悲しい気分になる。
まあ、昨日の学年ゼミで西川先生に一人のゼミ生は同じようなことを質問。
「『』で内乱起きそうですね」と。
西川先生は、特に心配することなく、
「それが健全だし自然だと思うけどね」
とおっしゃった。
いろいろ説明されたがど忘れしてしまった。
でも、納得している自分がいるからよし。
らーめん通にも、豚骨派、家系派、二郎派等分かれている。
でも、お互いに割り切っているからか、
「だからお前もこれを食え」
とはなっていないし、
「あのタイプのらーめん好きかよ」
とあざ笑うものもいない。
らーめんの話になれば、意気投合しながらお互いに好きならーめんについて話し合うのではないだろうか。
そんな風に『』もなればいいなあと思う。
一斉授業で特に内乱が起きていないのは、
一斉授業という形が実は曖昧で、でも一般化されているからなのかもしれない。
『』も一斉授業のように一般化されればいいなあと
強く思う。