きっとしないこと

 

将来、「教材研究」や「教授法」に注力はあんまりしない。

というか、しないだろうなあ。

 

教材研究って、手短に言えば授業前に教師が教授する内容を深く学んでおく、いわば教師版の予習なわけでありますが、現場に立ってなくてもわかる、

そんな時間はない

ということを。

現場は雑務・事務作業で埋め尽くされているのは把握済みです。

 

最初は無理してでもできるかもしれないけれど、

継続はしないと思う。

 

100歩譲って自分の時間は削っても良いとしても、

家族の時間まで削るのは正直ナンセンス。

少なくとも、それを教員全員に求める環境は正直異常だし、

必ず組織がパンクする。

(といっても現状、講師不足、倍率低下etc、もうしてますけど..)

 

それに、ぼくが行う授業ってのは、それを必要としない。

(厳密に言えば、課題選び等あるから、最初は試行錯誤を要する。でも、いずれは課題選びも直に教師がする必要がなくなる)

だって教師が教える行為自体、タブーなんですから。

教師が主体的に教えなくても、「ICT(環境)設備」、「子どもを見守る」、「声掛け」、だけで教育(授業)が成り立つシステムがここにありますから。

 

教授法もそう。

だれにとっての教授法かを問えば一目瞭然。

 

子どもという子どもが一つの空間に集うわけがないし、

1つ、うまくいけば2つ3つの教授法を一人の教師ができたとしても、それが全員にマッチする(ぼくの学生時代の経験からもこれは言えます)ことはあり得ないし、

そんなことを考えると、教授法を考えるのって、終わりの見えない水平線の大海原を小さいボートでとにかく漕ぎ進むようなものなわけでありまして。

「どっかのなんかの誰かのための教授法」(つまりは不特定教授法)であれば、話は別ですが。

 

長くなるだけだからまとめると、

誰を意識してそれをしてるの?

が、キーワード。