教師は花火にはなれない
昨日は(人生初)長岡花火でした。
人ごみがすんごい苦手だし、炎天下の中何かを待つのが嫌いだから、
「どうなるかな..」と思っていましたが、
行った甲斐ありました、本当に。
流石日本三大花火です。
お金のない大学院生一行は、
当然、有料席ではなく、お金のかからない自由席。
正午前に赴き、レジャーシートを敷き、事前に我々の席を獲得。
自由(無料)席だから、花火がよく見えないのかなと思ったが、
実際は「ここは有料席ですか?」と勘違いしてしまいそうなくらい、
迫力・綺麗さを堪能できた。
でも、物理的には当たり前ですよね。
円形のものがそのまま爆発してるから、均等に火薬が飛ぶわけですし。
きっとあのとき見ていた花火は、あの会場・会場付近で見ていた誰にとっても同じように綺麗に咲いていたのかなと思う。
とは言っても、厳密に言えば、
円形(菊・牡丹)型の花火に限るんですが。
(方向性のある花火(土星・蝶)だと、見る場所によって形が変わるし、そもそもどんな形が夜空に浮かび上がったかが正確にわからないこともしばしある)
そう考えると、教師は花火にはなれない。
もっと詳しく言えば、円形型の花火にはなれない。
例えば授業で説明すると、
どの子どもにも、
「わかりやすい授業だなあ」
なんて決して思われないんです。
一部の子ども、あるいは全員ではない、ほとんどの子ども程度にしかそう思われないのが実態なんです。
なぜなら、子どもは多種多様で、
子どものような子どももいれば、
大人のような子どももいるからです。
西川先生もよくおっしゃるんですけど、
「子どもという子どもはいないよ。」
という考えからです。
だから、一つの授業スタイルが
全員にフィットするわけがないんです。
子どもたちが学び合う授業ではない、
教師がする授業って所詮そんなもんなんです。
教師自身がそう思えるところからスタートすれば、
新たな世界・視点が見えてくるのになぁ、と青二才が思ってみる。