英語教育の行方

英語力は確かに必要だとは思う。

 

できれば可能な限り、みんなにその能力があったならば、理想っちゃあ理想。正直な話。

(と言っても今はそう思ってない)

 

でもそれはなかなか酷な話。

 

数学苦手なぼくが、

「数学は今後の社会で必要。せめて、二次関数まではしっかりできるようにしよう」

なんて言われたら、発狂してしまう。

できなくはないが、嫌いだ。

 

それと同じ。

 

世界と繋がってる一部の人が使いこなせればいいのかな、と思うようになったのは西川ゼミに入ってから。

 

「欲を言えばあったらいいよね」

と思う技能の1つに、今は留めるようにしている。

 

そんな英語教育について、

今朝ニュースで取り上げられていた。

読む書く聞く話すを満遍なくクラス全員に指導している授業の様子だった。

生身の人間がその技能を獲得して、「いつ使うかわからないけどとりあえず習得するかぁ」的なイメージに、ぼくには思えた。

 

AIが活躍し始めているこの時代に来たら、

もう、生身の人間が英語を読む書く聞く話す必要はあんまりないと思う。

どちらかと言えば、AIを使いこなして英語という言語をどう駆使するか、にフォーカスした方が良いと思う。

 

だから、AI×英語(ここでいう×は、コラボレーションの意)に特化した教育に力を入れた方が、絶対良いというかマシ。

 

もちろんAIなくても英語などの外国語を効率よく習得できる人もいるし、「生身の自分に習得させたい」という人もいる。

それはそれで良い。

完全自動運転が全体の80%をシェアしてても、自分で運転するという「こだわり」を優先して手動運転を続ける人は絶対いるわけで。それと同じように。

 

早い話、英語との付き合い方は、各々が選択できればいいよね。一方的に、「これを習得せよ」と与えられるんじゃなくて。

ここでいう選択は、「英語?勉強しなーい」という付き合い方も全然あり、ということです。

 

西川先生が頻繁におっしゃる、

「君はまだ脱工業化社会できてないね」

の真意をジワジワ感じ取り始め、

感覚がよかってきた気がする。