実践せず嫌い

 

食わず嫌いだった食べ物は結構多い。

ナスなんかは、食べたことがなかったのに、

『兄が嫌いだから』という理由で、

大学1年生まで口にしたことはなかった。

でもいまでは大好物のひとつになっている。

 

音楽なんかでもそういう経験が最近あった。

周りの人と話しててたまに聞くアーティスト。

でも、あえて聞かずにいた。ヴィジュアル的にぼくの好みに合わないと判断したからだ。

Youtubeのおすすめ欄に出てきたのがついこの間の話。

なんとなく視聴してみたら、自分の好みにドンピシャだった。

聴かず嫌いだったのだ。

 

そういうのを振り返ると、もっと早くに出会ってればよかったなと痛感する。

 

“OOず嫌い”が多い自分の性格だ。

『』以外の教育実践をしないままでいいのか、と

たまに思ったりもする。

 

“OOず嫌い”が自身を損をさせているんじゃないかって。

一回くらいトライアル期間を設けて、そこで初めて吟味しなくてもいいのか、と。

もしかして、実践せず嫌いなんじゃないか、と。

 

 

 

でも、そんなこと言ったらキリがない。

何百、何千もの教育実践がこの世にはあるとしたら、

「試しに..」なんて言ってひとつずつ試してたら、人生が終わる。

そして軸がぶれるから、子どもたちに申し訳ない。

 

それを防ぐのために、理論がある。

 

ぼくは『』の理論を判断基準にしている。

これ、結構いいフィルターです。

 

このフィルターが「あれもこれも現象」が

起きないようにしてくれている。

 

実践せず嫌いとは言わせない。

理論をフィルター代わりにしてるだけ。

「何がどうなるか」がわかるし、それが好ましくないこともわかるから、しないだけ。