折り合いの真理
昨日のブログの続きを書きます。
広域通信制に通いながら(通うというか籍を入れておく、なのか)、
公民館とかで子どもたち同士で学び合うのは、すんごい理想的。
学校とかにわざわざ通わなくて済むし、
好きな人と学べるし。
でも、「折り合いをつける場所がなくなるよなぁ」、
とふと思った。
これまでの学校は、私立であっても、いろんな人が集まるわけじゃないですか。
そういうところで『』をやる意義は非常に大きかった。
でも、学校(あるいは教室)という枠から出ると、多種多様な人間が集まる宝庫ではなくなる。
だから、そういう人たちと「折り合い」をつけて、「課題を達成」する機会(『』で言うところの学校観)が損失してしまうんじゃないか、と思ったんです。
折り合いって、ぼく自身、生活の中でまあまあ上位に来る重要なものだと思ってます。
だから、そういう世界では、どうやってカバーするのかなと思い、
今日先生に問いました。
折り合いは勝手に身につくものなんですって。
というか、
自分の中に高度な望みが生まれ、それを達成しようと思う心
が大事なわけで、折り合いをつけさせることそれ自体はそんなに重要じゃない。
まあ、「自分一人の力で達成できる望み」であれば、
誰とも関わることなく活動できる。
でも、その活動そのものが非常につまらないものになるだろうから、
そこを教師としてどう子どもたちに意識させるかが鍵なんですかね。
折り合いをつける能力は確かに大事。
でも、活動の中で(課題次第だが)培われるものだし、
そもそも、それをみんなに一律に求めちゃ、工業化社会の人間と変わりない。
誰かがその能力を持っていれば、それでいいのかもしれない。
「全員」が持つ必要なんてないし、望まないようにしよう。