辛辣な訴え

連携校で『』授業していたとき、一人の生徒に聞かれたことがある。

 

「これってさ、授業なのに先生教えないっておかしくね。何もしないんだったら、いらないよね。」

と。

ぼくに向けられた言葉ではなくて、

教室にいた他の先生に向けた嫌味を、ぼくにこっそり訴えてきた。

 

「そうだよ。」

と、ぼくは答えました。

 

おそらくその子が小中で受けてきた授業は、

先生が教え、児童生徒が板書、というスタイルだったのでしょう。

9年間も通えば、授業内での「先生の役割」は、そのスタイルなんだという考えが根付く。

 

だから、そんな彼の質問には何も悪気を感じなかったし、

至って健全な考え方だったと思う。

 

そして続けてこう答えた(気がする)。

 

「でも、この授業では、教師は『何もしない』でいいんだよ。

(正確には大事なことをしているが。。

授業をする、という教師主体の意味では何もしない。)

ぼくら教師の仕事は、君らがよりよく学べるように

環境整備することだと、ぼくは思っている」

 

ここでぼくがいった環境整備とは、

支給できるものはできる限りする、

タブレットとかPCとか、「学ぶ」上で役立つもの)

集団をうまくマネジメントしたり、

胸が高鳴るようなビジョンを示したり、

生徒のモチベーションを維持できるように接したり、

生徒自身が立てた目標を達成できるよう生徒と誰かをつなげたり、、

 

ぼくは、そういうのが教師の仕事だと思っている。

教えるという教師の仕事は、

タブレットやPC内に無限にあるコンテンツが代替してくれる、

それも止めたり、巻き戻したり、早送りできたりする、

有能な先生が。

 

生身の人間として、教師として、

専門教科内でなんかしよう(授業力)

という考えはない。

 

これはあくまでぼく個人の考えであり、そして望みであり、

誰かを否定するような意味は含んでいない。

 

でも、これからの教師の仕事って、

そういう方向にシフトしていく気がするんだよなぁ。

 

まぁ、その子がぼくにそう訴えてきたということは、

素直に「そう見えてた」てことだから、

『』での教師の役割について、話しておくべきだったのかも。