変化する事物,不変な授業
物体として持ち運ばなければいけないお金。
取引には欠かせないものではあるが,
貨幣や紙幣とはいえ,結構邪魔である。
でも,一枚のカードで取引をできるようになったのが,1900年代中盤。
そして今ではポイントという概念も持ち込まれて,
とてもコンパクトに取引ができるようになった。
目が悪い人のために開発されたのが眼鏡。
視力の補強という面では13世紀後半にはすでに
開発されていたようです。
でも,「眼鏡だけの生活」に満足できない世の中が出来上がり,
今ではコンタクトが主流になっている。
なんなら,コンタクト・眼鏡の存在を気にしなくてもいい,
レーシックという画期的な「視力補強」がすでにある。
そのほかにもいろんなものが進化を遂げているのに
どうしても「授業」は「授業」のままだ。
なぜ,わざわざ一つの教室に集まって,同じ年代の人と,同じ内容の学習を強いられるのかがわからない。
なぜ,スマホという,学習において,これまでにない優れた’武器’があるのに,使用において厳しく制限されているのかがわからない。
なぜ,一人の教師が,教壇に立って,黒板に書いて,勉強を成立させる,そんな学習が未だに残っているのかがわからない。
摩訶不思議でしかない。
「頑張ればそれでいいよ,結果にはフォーカスしてないんだ」という雰囲気が今の学校にはあって,なんだかなぁと思う。
「結果にフォーカスする,でもやり方は任せる。くれぐれも『頑張った』に満足するな」
という雰囲気があってもいいのになぁとも思う。
ちょっと話がずれたな。
まあ何が言いたいかといえば,
周りのものは変わり続けているのに,
学校の授業の形がずっと変わらないことに対して,
本気で疑問を抱く人が多くないから,
今のままなのかなと思うことがある。
つくづく思うのは,こんな疑問を押し殺しながら,
果たしてぼくは一条校に勤務できるのかということ。