越えられない壁,言語

ふと思うのは,

言語の壁は本当に高いなぁと思う。

 

例えば,今西川先生が「今」おっしゃっているありがたい言葉も,ふと喋った友人の心に来る言葉も,ぼくの中,または空間を共有した人にしか残らない。

日本語がわからない人には伝わらない。

もちろん「ぼく」が逐一,例えば,英語で訳していけば問題ないのだが。

ただ,完璧じゃない。誤解を与えるかもしれない。

 

Google翻訳も,今のところは完璧じゃないし,

ぼく自身使っている限りでは,この先も完璧からほど遠いだろうなぁとは思う。

話者が意図している心情をまるで読み取り,訳しきれていないというのが,辛辣ではあるが,昔から思っていること。

だから,これからの翻訳機に,世間一般的なレベルで期待はしていない。

 

ディープなところまでは無理だろうなぁと。

 

 

便利なツール止まり,と思う。

 

 

そうなると,

あのときの言葉,今の言葉,あの人が発した言葉,

それらはすべて,ありがたい言葉なのにも関わらず,

ただただ流れていく。

日本人もそうであるが,

海外の人はそれを理解できるチャンスすら乏しい。

 

これは台所で皿を洗っているときと同じ感覚。

 

改めて水という存在にありがたさを感じながらも,

「本当感謝してる」と毎秒思うこともなければ,

泡を落とすためだけに蛇口から落ちては排水溝に

消えていく,あの感じと似てると勝手に思っている。

 

ぼくらが知っている「いいなあ」と思えている言葉は氷山の一角に過ぎなく,実はもっと良い情報・言葉は,届くことなく流されているのかもいしれない。

特に,母国語の外の人間には。