ぼくの性に対する捉え方
ぼくが大学生くらいになってから,世間ではやっと,
性の認識について頻繁に取り上げられるようになった気がする。
トランスジェンダーとか同性愛とか,
そういうことについて。
そして意識するようになったのもその頃から。
ということは,
高校生までは,何も意識することなく,
自然にそういう類のものに対して,
「気持ち悪りぃ!」と吐いていたわけだ。
「まあ,あの時は仕方ないのかな」
と今は合理化している。
「過去を直視しろ!」と言われましても,
深く陳謝するつもりはない。
そもそも謝る対象が見当たらない。
「異性を好きになってこそ人間だ!」
とまでは言わないが,そういう雰囲気の中で,
ずっと育ってきたわけですから,どうしようもないわけであります。
「1+1=2以外考えられないよ」という
環境で育ったなら,
「いや,2進数で言えば,10だからね。10もありうるよ。」
という人に会ったら,「は?」となるのと一緒です。
正直,まだその考え(性への偏見)は頭のどこかにこびれついているから,
呪縛からは解放しきれていない自分がいるのも事実です。
ただ,13人に1人が性に関して悩んでいるというデータを参照すれば,
ひと学年240名の高校生が在籍していた母校で,ぼくはきっと,
「ガハハッ」と悪びれなく当事者を批判していたのかなと思うと,考えさせられる。
「しまったなぁ..」と。
この性の問題の対症療法は,
ぼくが考えるに,とりあえずは,
「『認識』と『意見』の確立」なのかなと思う。
ぼくみたいな偏見持ちは。
「こういう人もいるんだな。でもぼくはこれからも異性が好き。」
のように,同性愛の存在を容認しつつも,
自分の考えは表出していく感じ。
もちろん,相手を責めたり攻撃したりするような方法ではなくて。
要は,
「隣の客はよく柿食う客で,向こうの客もよく柿食う客だね,
うちの客はあんまり柿食わんけど,まあいいか。」
くらいの緩さでいいと思うんです,自分自身に対しても,他者に対しても。
意識の転換,というんでしょうか。
わざわざよその事に目を光らせなくてもいいじゃんね~,と思うんです。
まだ偏見の片鱗はあるけれど,
ぼくは,心構えはできてます。
気持ちの面では準備万端のはずなのに,
ただ,未だに同性愛者同士の愛の形(手を繋いだり,キスをする)には,慣れていない。ビックリする自分がいるのも否めない。
いずれはそれも自然に捉えれればいいなあと思う。
そして,自分に子どもができて,物心がつく頃には,
我が子が,いちいち「心構えはできてるよ」なんて言わなくてもいいくらい自然な光景・考え方になってればいいなぁと思う。
ぼくがこれからできることは,
「同性愛?別にいいんじゃないかな!」
ということを本気で思うこと,そして子どもたちに伝えることに限る。