劣等感とは対になるものに浸る
劣等感って、誰でも抱くものだと思う。
「うわー、なんだよ自分より優れてやがる」て。
解決方法として、
「いちいち気にするからだよ」
「意識しなきゃいいのさ」
と発想の転換を強要されても、
難しいと感じ、挫折するのが人間。
考え方・捉え方をいきなり変える、のは個人的には、言ってみたら、「できる人」ができちゃうことなのかなと思います。
これまでの自分の考えを、180度変えるような大技であり、結局は普通の人には至難の業。
ただ、ぼくみたいな凡夫でも、考え方・捉え方を変えることはできると思います、時間はかかっちゃうんですが。
それは、なんだろ、
自分を苦しめてる思想とは対にある思想に浸ってみることじゃないかなと。
解脱のために、どうするべきか、みたいな。
ちょっと学校教育を例に取ってみよう。
漠然とでいいから、まず、
#深い学びのある授業 #学力保証 #教師
という単語を思い浮かべてみたなら、きっと頭の中に、ご自身がこれまで経験してきたソレが浮かんでくるんじゃないでしょうか。
懐かしさでもいいし、違和感でもいい。エモさでもとりあえず大丈夫。
今思い浮かべてるその情景に、不覚にもこう言う人がいたとしますか。
「ひとりひとりの『子ども』を意識した教材研究を…て、そもそもあなたが言う『子ども』て誰を指してるの?」
とか、
「基礎学力の『基礎』の定義が曖昧な上に、それを(ほぼ)例外なく全児童生徒に求めるのは、なんとも哀れで時代遅れなことか。」
とか言っちゃう人。
ぼくは3年前、そんなことを言っちゃう人に、興味と魅力が湧いた。
ぼくの教育に対する「常識」と「違和感」が共存している世界とは、真逆な発想をぶつけてくる、そんな人。
「この人ぶっとんでるなぁ」
と思いつつ、
「でも、的を得てるんだよなぁ」
と確信し、その人のもとで2年間学んだ。
まあ、早い話が、
劣等感を抱きたくないなら、劣等感に感じるものの対にあるものにどっぷり一定期間浸かることなのかなと。
するとどこかの段階で、
「あぁ、そういうことね」
と気づき、
「なーんだ、バカらしい」
と思えるようになる。
だから、ぼくの場合、
英語が専門教科なんだけど、
ビックリするくらい英語の授業に関しては無関心かもしれない。
だって、あれは、「あれば便利だけど無くてもいいもの」程度だし、それこそ、基礎レベル習得の強要はしたくない。
ぼくができること・したいことは、
英語という授業の中で、人とどうつながっていくか、を学ぶ場であればそれで全然良いんですよね。
ぼくは、子どもたちの
「今とちょい先」の超近未来
じゃなくて、
「今からもっと何年も何十年も先」の未来
を授業で見据えてます。
まあ、まだリアルには思い描けてないんですけど、きっと、ずっとマシな未来にはなるだろうなぁと。
そういう意味では、今は、
授業がうまい人には、全く劣等感を抱かない。
前は、「自分が英語の授業において、カリスマ教師になってやる!」と意気込んでましたが。
今では、
「その授業って、所詮、一過性でしょ?」
「どのスパンで授業計画を立てたの?」
としか思えないのだ。
だから、授業内におけるテクニックを重視した英語の授業講習会とかには、辟易してしまう。
と言っても、現場に出るとそういう研修等で溢れ返っているんでしょうけど。