飲みの場の「男からの評価」、学校の「教師からの評価」
場合に寄るけど、
教師が子どもに対してする評価って、日常茶飯事のアレに置き換えれらると思うんですよ。
アレっていうのは、ほら、アレ。
飲みの場で、男子が上から目線で女子に対してついやっちゃうアレですよ。
「〇〇ちゃんはさ、顔はそれなりに可愛いし、料理もできるから素敵だと思うけど、なんだろ、パッとしないよね。もっとファッションに拘った方がいいよ!」
「髪は絶対ショートカットの方がいいよ!俺はそっちの方が好きだなー」
好きでもない、どうでも良い人から言われると、女子は口を揃えて愚痴ります。
うっざ!
いや、知らんがな!
と。
まあ、逆の立場もそうです。
男子がどうでもいい女子からそんなこと言われたところで、なんやねん、と思っちゃいます。
「たった1人」からの評価
これからの長い人生、その「たった1人」は、死ぬまで寄り添ってくれるわけでもなければ、何かあったときすぐに助けに駆けつけてくれるわけでもない。
期間限定の人
教師なんて、モロそうなんですよね。
それなのに、「自分視点」をベースにした評価をせざるをえない文化がある。
「ここは良いところだからさ、毛嫌いせずに、もっともっと伸ばしてこうか」
「んー、ここは、直しましょうか。将来たぶん役に立たなそうだし」
という内容が暗に含まれた通信簿。
もちろん誰かが誰かを評価するっていう環境は必要です。
ただ、その「誰か」が1人なのは非常に怖い。
その独占評価で、人生の道筋が決まられたらたまったもんじゃないですし。
だから、生徒同士の評価が公式じゃなくて、最終的に学校側が、はいどうぞ、と託す評価がぼくは好きじゃない。
けど、学期末はせざるを得ないジレンマ。
そういえばこの間もそんなことブログに書いたな(笑)
多種多様の「誰か」からの評価が当たり前のように根付いてる環境、
例えば、「あの人はぼくにこう言ってたけど、君はそう言ってくれるんだね。ありがとう。ちなみにさっきの人はこう言ってたんだ。なるほどね。ありがとう、参考にするよ」
そんな、いろんな人からの評価が自己形成を促す。
ぼくはそんな環境が好きです。
ま、いろんな人と言っても、そのうち、ある時点で、「彼らが言うなら…」と、自ら真に受けにいく評価者集団が自分の中にできあがると思いますが。
それでいいんです。健全です。
だって教師の一方的な評価よりはるかにマシじゃないですか。
と言っても、中学のときの恩師による一方的な評価があったからこそ、今、こうしてぼくは教師になってて、この結果に不満を全く抱いてないわけですが。
ただ、そうじゃない人もいるのは事実でしょう、きっと。
教師からの「評価」で
道を塞がれた人、歪んだ人。
まあ、評価って、
難しく、深いんですけどね。
ぼくの考えに異論ある方もいるでしょう。
ただ、ぼくはそうやって考えてます。