「教師」というベールを纏って
つくづく自分の文字は汚いなと思う。
ただ,他人に見てもらうと,
「あんたうまいわね」
なんて言われることが稀にある。
先月だと,辞令交付式後に勤務校にあいさつへ行って,
職員室で軽い自己紹介をすると,珍しい名前だねと言われた。
「ちょっと名前書いてみてよ」という流れになり,
ホワイトボードに書いてみることに。
あっちゃー,文字の太さと言い,バランスと言い,
一番リアクションに困る字だなと,書き終えて思った。
ただ,一部の職員から,
「うまいなぁ」と
ちょっとしたざわめきを確認できた。
自分の文字って,他人から見たらそんなもんなんだなぁ。
ぼくは逆に,自分以外の人,それも自分の中で「特別な存在」と認定された人の文字に対して,好意的な感情を抱いちゃいます。
恋人なんて,年1くらいで手紙をくれたりするんですけど,その一文字一文字が,もうなんか,宝石みたいに映っちゃいますよね。決してめちゃくちゃ達筆ってわけじゃないのだけれど,どこか魅了されてしまい,見入ってしまう。
誕生日に短いメッセージ付きのプレゼントをくれた友人の字も,大学・大学院でそれぞれお世話になった指導教員の字も,仕送りのために伝票に書いた親の文字も,決してめちゃくちゃうまいわけではないのに,どこか魅かれてしまう。
「ちょっと,捨てないでずっと持ってようかな」
ともったいなさを感じてしまうくらいに。
まあ,一定期間,保管してたことも,
あったりなかったり。
さて,自分を例にあげといてなんですが,
「教師の字」も,子どもたちにとっての
上記のソレになるんじゃないかなとぼくは思う。
流石に,「保管しておこう」という過度な感情を抱かないにしても,特別な感情は,一つ一つの文字に対して抱くと思うんですよね。絵もそうです。
個人に向けたメッセージなんて特に。
板書の文字,添削の文字,付箋に書いた文字,丸付け(採点)されたテストのプリント,そのプリントに大きく書かれた赤の花丸...
解読可能な範囲での文字,脳で認識できる絵なら,
わざわざ,
「字,うまくなろう..」
とか
「自分の画力なんとかせねば..」
と思わなくてもいいんじゃないかと,個人的には思うんですよよ。
だって,教師ってもう,子どもたちの中で,
なぜか知らないけど「特別な存在」になっちゃうじゃないですか。
だから,そんな訓練とかせんでも,
「ありのままでいいんじゃないすか」
と自信をもって言っちゃう。
そもそもなんで教師が,
子どもたちにとって「特別」な存在になっちゃうんですかね。
教室の一番前で喋るからでしょうか。
国語とか,数学とか,物理とかを教えるからでしょうか。
児童生徒より年上だからでしょうか。
スーツを着てるからでしょうか。
学級という組織の代表だからでしょうか。
それはわからない。
でも,何かしらのフィルターが両者の間に存在していたのは確かだ。
自分の過去を振り返れば,
勝手に「教師」が特別な存在になっていたなぁ。
そのフィルターの「せい」というか「おかげ」で,
教師がいちいち生み出す「文字」や「絵」は,
特別な生産物だった。
場合によっては,どんなに汚くても,
達筆に見えることもあれば,輝いても見えていた。
なぜか,どの教師の文字に対しても。
まあ,そうはいっても,「特別止まり」で,
「この人についていきたい」と思えない先生には,
とことん穏やかに反抗しましたが。
「教師」という名のベール,
果たしてぼくには備わるのかな。