足並みを揃えないと落ち着かない学校文化

朝ご飯食べた後,何気なしに付けていたテレビのチャンネルを回したら,某人気海賊アニメがちょうど始まっていた。その某アニメを見るのはかなり久方ぶり。

その某アニ,,

 

てか特段,ここでは❝某❞にこだわる必要ないのか。

 

ワンピースです。

 

もうだいぶ観てなかったから,ストーリーがわけわからなくなってます。

そもそもなんでルフィ率いる麦わら海賊団が,チームとして一緒に行動してないのか,,もうそんなレベルです。なんで同じ画面にルフィしかいないの,と。

 

ストーリーがよくわからないから,

いろいろと「なんで?」がふつふつと沸いてきて,つい画面に向かってイチャモンをつけたくなるわけです。すんごい面倒臭いな,自分。

 

いやいや,漫画を何十冊も集めてたあんたが,途中からパタリと,継続して観てこなかったせいじゃないの,と自分自身に喝。

 

 

そういえば学校文化も似てるよね。

担任制だからか,他クラスの子の詳細な状況をわかっていない他クラスの先生が,事実確認と称して,「ちょっとOO先生,いいすか」とチャチャいれちゃう感じとか。

「なんですか,あの子らの授業態度。」

「どうしたんですか,あの子らの口癖。」

 

きっとぼくの児童生徒時代,

当時お世話になった担任の先生らはそんなことに直面していたに違いない。

 

いやいや,なるべく教員間で情報共有してるとはいえ,全てを知り尽くしていないあなたがそんな威圧的な攻めの態勢で来んといてくださいよ,と思ってたのかな。

傍から見たら全然オーライなのになんでそんなに..と。

 

「こっち(この教室)にはこっち(この教室)の世界観があるわけであって。」とぼくなら言っちゃいそう。

 

学校内の同僚同士でこうなのだから,研究授業とかでお出でになる県教委の指導主事,他校からの教員の前では,上記の出来事は必至でしょうね(苦笑)

年度内にあるであろうぼくの研究授業では,ぼくと生徒の間にある世界観に足を踏み入れられるのかと思うと胃が痛くなるよ...

と思いきや,めちゃくちゃ真剣に聞いて,

ほとんど流しちゃう気満々なんですがね(笑)

 

とは言っても,

全部を(聞き)流さないのは,砂金を見つける作業と似てるのかも。

去年,佐渡島行って,「砂金採集」をやってみたんですよ。

普通で大量の砂・小石に混ざってる砂金がるという川から,業者さんがドバっと持ってきて小さい池を作る。

「では,ここから砂金を採ってみよう」で始まりましたね。

結果的に,30分探して一粒しか採れなかった。

それでも,能動的でワクワク感が溢れた時間だった。

 

無駄だと分かっていながら,でも,やらざるを得ない状況ってありますよね。

そういうときは,

「砂金が混ざってる可能性のある普通の砂の山なら,きっと必ず砂金が混ざってるに違いない」という至極シンプルな思考で動いてます。

どうせやるなら,そういうちょっとワクワクする姿勢で臨んだ方が楽しいじゃないですか。

ぼくはそんな感じ。

 

話がそれましたね。

 

 

印刷し終えた十数枚の資料をトントンと揃え,ホッチキスでガチャンときれいに綴じる。そして残りの十数部もそんな感じで綴じる。同じ資料の大量生産。

これと全く一緒なのが,今の学校のスタンダード。

もちろん,それに違和感を覚え始めてる学校が増え始めてますが。

 

「足並みを揃える文化」が健在する学校では,

しょうがないと思いつつも,抜け穴は常に探してます。

 

アドバイザー(指導教員)を選ぶ感覚で,子どもが教師を選び,クラスに所属する。

そんな公立学校が理想だよね。

そしたら,「OO先生,ちょっといいすか。」と言われずに済みますし。

「ぼくのクラスはそういう文化ですから。

 その文化を子どもが好んで自ら選んでます。

 学校側が与えた,❝最低限全クラスがやらなきゃいけないこと❞もやってますでしょ?」

で済むよなぁ,なんて。