専門教科に固執する人

今の勤務先にはいないけど,

大学院とか大学にいたころ,

「私はこの教科(その人の専門教科)で生徒を変える!」

とか,

「この教科って子どもたちにとってとても大事だと思うんですよ」

と意気込んでる先生に遭遇することが,まあ多かった。

 

当の本人,わたくしもその類の人間ではありましたが。

「英語でグローバル人材を!」なんて掲げてたなぁ。

 

でももう,数年前から,その呪縛から解き放たれている。

 

専門教科の英語を使って,授業でなんかしよう」

と仕掛ける気持ちは皆無です。

 

「たまたま担当教科が英語だから」が念頭にある。

英語じゃないとダメ,と思ってません。

言い換えれば,英語以外の教科,例えばすんごい苦手な情報,数学だろうが,アートのセンスが全くない美術でも,どんと来い,という心構えで常にいます。

(そういえば小さい学校だから,情報という教科も受け持つことになったな。取り急ぎご報告まで。)

「ある程度の教材,人材,環境,それらはぼくが準備しとくよ。でも学び方は君たちに任せるよ。」がぼくのスタンスですから。

 

「教科」という概念がない,

ボーダーレス的な考え方をしてます。

 

じゃああんた,今の学校現場の「授業」というものをどう捉えてるか,と問われれば,なんて答えるか。

「人との関わり方を学ぶ時間」と答えるようにしてます。

それはもうぼくのパラダイムです。

誰が何と言おうと,この「現代の学校教育」に関して言えば,

この先その考えは変わることはないと思います。

 

だから,例えば,

世界が「ぼく」と「その他の人」で構成されていて,

その世界には「2つの考え方」が健在しているとしよう。

 

1つは大衆が支持する「授業の本質は各教科で深い学びを」という考え。

もう一つは,上記で説明した,ぼくの「授業になんで教科という線引きがされてるのかしらね」という考え。

 

世界にこの2つしか考えがなく,しかもめちゃくちゃぼくが発言権デカいことになってますが(笑),まあ,そこは大目に見てくだされ。

 

さらに言えば,ぼくさえ,向こう側の考えに賛成すれば,全ては丸く収まり,スムーズにパラダイムシフトが起こるという,おかしな状況があるとしますか。

 

ぼくが生きている限り,

その世界ではパラダイムシフトは起きないでしょう。

もちろん,ぼくがいなくなれば,二大巨頭のうちの一つが消えるわけですから,もう片方の考えが世界を席巻するでしょうけど。

でも,ぼくが生きている限り,二つの考えはバチバチ状態。

 

ぼくはそれくらい断固たる考えを持っていて,

揺るぎないです。

なんて熱い男ですこと。

 

まあ,そもそもですが,

授業という考えもちょっと違和感ありますが。

うまく言語化できないんですけど,

全部ひとまとめに,「学習」でいいじゃんか,と思ってます。

理由は言語化できないんですけど。

 

難しいですこと。

 

 

そういえば最近,おもしろい妄想が浮かんで,

それに花を咲かせてます。

「今よりもうちょっと先の教育」についてです。

あえてまだ誰にも話していません。

それに関する専門書も読んでいません。

 

妄想が現実という壁にぶち当たり,

「はい,ここまでね。現実みましょうね~」と,それで終わってしまうような気がしていて,そうさせないためにずっとしまったままでいるんですよね。

まあ,そのうち,誰かに話します。

 

「新しい教育」であり,

「新しい学校」であり,

「新しい働き方」であり,

子どもにも,働く側としても,

選択肢が増えたなぁっとなるんじゃなかろうかって思います。

Win-Winっすね。

 

というか,ぼくがそういう働き方をしたいという思いが強いだけなのか。