ぼくがしたいこと,ぼくが結果的にしていること

今日から本格的に始まってしまった学校。

 

クラスター大丈夫かよ..」というマイナス面

「でも,やっと会って話せた」というプラス面

それらが入り混じって,

「まあ..ね..」という微妙な感じ。

 

部活は当分なさそうなので,

生徒も16時には学校を出ていきます。

 

時間的な余裕はまだありそうだ。

 

「通常17時30分には退勤,

めちゃくちゃ遅くても18時には退勤」

を目標にしてます。

 

自分ができる範囲で「それやりましょうか?」と学級担任の業務をしながら,自分の周りの「ムダ」と思われるものは,とことん手を抜く。

これがどこまで通用するのか,見ものですね。

 

 

そういえば,今日から本格的な授業でした。

 

言わずもがな,個別授業。

 

雑談が苦手な生徒だったので,

授業内容:雑談=8:2

くらいになってしまいましたが,滑り出しはまあ良かったかなって感じ。

 

もっとお互いに打ち解けれたらいいね。

 

ただ,授業してる(一方的に教えてる)ときに,

不意に悲しくなりました。

 

「この子にとって,今自分が教えてるこの英語は,

きっとあんまり意味を為さないのだろうなぁ。」と。

 

「ぼくじゃない,別の人たち(同僚)と関わりながら何かを学んだ方が何千倍も意味あるはずで,この時間,この子は,何を得ることができているのかな」と。

 

その子なりに一生懸命,授業の内容に付いていこうとしていて,筆を握って,問題と睨めっこしてるのに,ぼくときたらなんてやつだ,と感傷的になった。

 

「これじゃないんだよ,本当は。ごめんね。」

と終始思い続けながらやる授業,

そのうち折り合いをつけて(見切りをつけて)慣れるか,

それとも,納得できないままどっかで爆発するか。

 

まあ,前者でしょうね(笑)

 

というのも,プランAができないなら,プランB,プランC..と実行していって,完成を目指しながら,妥協ポイントを見つけるだろうし。

 

ただ,もしぼくが公立の教員を辞めるときが来るとすれば,日ごろのブラック残業でもなければ,世話の焼ける生徒の対応でもなくて,きっとそれは,「目的の見えない授業を強制的にさせられる環境」が続いたときなのかなって,その授業中,ふと強く思った。