人間はオーダーメイド不可

ぼくの根本にある考えとしては,

「人はなかなか変わらない」ですね。

ぼくのこれまでの経験からも言えます。

 

いろいろ考え方はあると思うんですが,

「よし,今日(今)から変わるぞ!」

なんて自分の中で決意表明したところで,

すぐに変わることなんてあり得ないと思ってます。

もちろん長期的に変わり続けるのも不可能。

自分の周りに「ということで私は..!」と宣言しても,行き着く先は一緒なのかなって。

 

というのも,どこかで気の緩みが生じて,

勝手に及第点を設けて,「このくらいでいいかな」と妥協してしまうように設計されているんですね。

 

 

「すみません,そのご注文はお断りさせていただきます」という,本来であれば事前に補足説明が必要なんですが,それなしに産み落とされて,物心がつく年頃まで育ってしまう,というプロセスに我々は乗っかているような気が。

 

何が言いたいかというと,

「人は独力じゃ,どうしようもなくて,

 結局,いろんな人との関わりがないと,変われないよね」

ってこと。

 

もしかしたら,一部の天才には可能かもしれません。

でも,そのサクセスストーリーには,絶対,自分以外の人間との関わりがあって,そこでインスピレーションが起こったり,モチベーションが上がったり,何かしらのキッカケがあったと思うんですよ。

天才ですら,一人では「蛹→成虫」へと成長できないってことです。

ましてや凡人は(てんてんてん)

 

そういう考えでいるぼくは,

教師の「私がこの子を,卒業までに変えてみせる!」という考え方にはどうも納得できないんですね。

 

すっごくその気持ちはわかるけども,

すっごくその試みに無意味さを覚える。

 

たまたま出会ったイチ教師とイチ生徒が,パズルのピースみたいにうまく合致する可能性は限りなく低いのに,「俺だ俺だ俺だ俺だー!」とグイグイ行こうとする行為って,なんだか切ない。

 

それに,その考えでいけば,変えなきゃいけない子どもは,目の前の「その子だけ」じゃなくて,その子以外の複数の子どもたちなんですよね,きっと。

天秤に乗っけて,「よし,こっちが緊急を要する」と比較しているだけで,双方に「変えておく必要性がある」のには変わりないんですよ。質量と同じ。

 

てなると,教師ってめちゃくちゃやることあって,一旦それを始めちゃうと,

「じゃあ,とりあえずあんたの残りの人生,捧げてもらおうかな?」

と鎌を持った死神が降臨しちゃうわけですよ。

 

そういう意味では,教師で何かせなと企てるより,「多種多様な人間が揃う環境を揃えちゃおう」,と思うわけであります。

 

「その子を変えるのは,その子自身でもなければ,あなた自身でもない。その子の周りの子たちだよ」っていうセオリーなんですね。

 

その方が,その子をはじめ,一人一人が変わる可能性が,

「イチ対イチの手立て」より高い。

(詳細は,『』の本なり論文を参考にした方がいいかも)

 

だから、今ぼくが置かれている個別式授業は納得できないし、他の学校の先生が、机に座らせて児童生徒同士の相互作用を阻害して、未だに一斉形式で授業してるのも納得できない。

 

ぼくはそんな感じ。