理想に見えてもしょうがない

校内での初任者研修が終わるたびに,

研修日誌なるものを書くんですね。

 

その研修を終えての自分の感想や考えを書き綴るんです。県から課されているものなので,これは絶対やらねばならないものです。

 

月が替わるタイミングで,前月の振り返りとして,

ぼくが書いた日誌をもとに担当教諭とお話をしながら,添削もしてくださるんですね。

その日誌自体,後世に残るものなんで,「ここではこういう表現を使うといいですよー」とか「もうちょっとこの内容について詳しく書きましょう」とか。

 

ご存知,ぼくは文を書くことは好きですが,韻文が滅法苦手で,散文型。いや,もはや散文を通り越し,得体のしれない文を書いているに過ぎないので,「ルールに則って書き上げる文」は,カバーしていない。

そんなもんだから,結構チェックを入れられちゃうんです。

 

とはいえ,そんなことはそこまで気にしないで,

「自分のためになる日誌」をモットーに毎回書いている。

後世に残るとはいえ,誰が読むかをほとんど意識しないで,

ただひたすら書いていく。

 

まあ,ありのまま書いてるっす。

ここのブログに書いてる本音度が10だとしたら,

その日誌には7くらいの本音。

 

そうでもしないと気持ち的にやっていけないな,と。

負担軽減ですね。

 

もちろん担当教諭は,表現方法だけでなく,ぼくがそこに書き綴った(今の時代,タイピングかな)内容にも目を通しているので,そのことについても質問を受ける。

 

その日誌は,ブログとそこまで大差ない位置づけなので,「工業化社会型教育」とか「個別最適化」というワードも使うし,「学びを年齢層で分けることに疑問がある」とか「人間関係を構築する能力の方が学力より大事」などなど,当たり前のように書いている。

『学び合い』の考え方と自分の本音をブレンドして書いてるんですね。

 

担当教諭は,

「普段,あなたがそういう考えをしているのを,この日誌を通じて知れるので,すごくおもしろい」と言いつつも,「でも,それらは理想かなぁ,なんて!」という意味を含んでものすごく遠回しに,いろいろとアドバイスをしてくださります。

 

なんだろうね,

まだ地図が出来上がってない時代に,

「見て!これが世界地図だよ!」

と無邪気に大きな地図を拡げる少年

のようにぼくは映っているのかもしれない。

 

「そうだったらいいよね~」と流される少年みたいな。

 

「ヒューマンエラーなんてものはなくて,システムエラーが物事の原因」という考えで,いろんなことを捉えるようにしている自分としては,その教諭には憤りなどは感じませんし,むしろ「こんな拙文を読んでいただき,ありがとうございます。」という感情しか湧きません。

 

ただ,ありのままを書きすぎると,

担当教諭への負担(添削作業)も半端ないよな,

と思い始め,今月からは「当たり障りのない普通の文」

を書くことにしました(笑)

 

本音をなるべく殺して,

誰が見ても,「よし,おけ」と思えるようなそんな日誌。

 

本音で話すのは,文字ではなく,

言葉で十分だなぁ,と振り返る7月頭。