『ニューロダイバーシティと発達障害』を読んで

だいぶ前に西川先生が「この本良いよ」てSNSで投稿していたのをなんとなく思い出して、ついこの間で購入してみました。

それにほら、今現在、特別支援教育に携わっているぼくとしては必読かなと思いまして。

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そもそもニューロダイバーシティ(Neuro Diversity)とは?という話ですが、「人間一人ひとりを制御している脳神経系にも多様性があって、従来考えられてきたほど個人ってもんは均質なんかじゃないよ」という、そんな考え方。

 

発達障害があった偉人のエピソードにフォーカスして、「本当の意味で、もっとヴァリエーションについて考えようよ。人間らしさの欠如を招いちゃうからさ。」という強いメッセージ性のある本でした。

 

この本を読んでいて思ったのは、

現在の(多くの)学校教育は、

こういった発達障害のある人間には、

だいぶ苦しいシステムなんだろうなって。

 

「わかったかな?君はここまでできたけど、ここから先はできないみたいだね」という現実をまざまざと見せつけられ、「はい、脱落」「ゲームセット」みたいな、なんだかふるいにかけられている、そんなイメージ。

だって、障害によって計算できない人、字が読めない人、字をうまく書けない人、、部分的にまわりの「一般人」に追い付かない能力を持ってるだけで、「あなたはコッチ」と仕分けられているような世界じゃない、ここは。

 

国や文化の差を問わず、

初等教育は読み書き計算から始まる。

できようができまいが、とりあえず教え込む。

その子ができるようになるまで、闇雲に指導する。

 

 

ぼくがそんな風に指導している人に対して思うこと、それは、「何を見据えてその子に執拗なまでに教えているんですか?」です。

 

「できないこと」に時間をめちゃくちゃ割き、「できるようにさせる」過程で、他の「できる」側面を無下にしてはいないかって。

 

ぼくが勤務している特別支援学校の生徒に対しても思いますよ。

「この子は、こんな教科に時間を費やしている暇はない。」「これから働いて生きていく上で、あの教科にもっとフォーカスしないと。」「このすばらしい才能が開花しないままなのかな..」みたいな。

 

できないもの、あるいは在学期間中にできるようになっても、人生に何らプラスの影響を与えないものに時間を割かなければならないこの教育システム(=中央集権化)に、やっぱり苛立ちとやるせなさを覚えちゃうなぁ。

 

障害というものにユニークさが生まれる教育はなんだろうって考えてみる。

 

 

「個ー個」も有効かもしれないけど、

ぼくは「個ー集団」派。

 

結局は『学び合い』の考え方になっちゃうのだけど、まあとりあえずはさ、外野(学習者を取り囲む教師たち)はいちいち口出さない方がいいし、余計に手を差し伸べないでよと言いたい。

 

見守ってあげようよ。

 

安全に失敗できる環境整備しようよ。