「教育」と「あのカード」の話
大富豪だとジョーカーは比較的強いのに、ババ抜きというゲームに移った途端、弱いというか、プレイヤーからは嫌われ者扱いされる。
ゲーム名は忘れたけど、ルール上、2が最強なのに、
別のゲームでは2はそこまで強くなくなる。
そうそう、
K(キング)が良しとされるゲームもあったよね。
何が言いたいかというと、
トランプはまさにぼくらが住むこの世界を
如実に表しているなぁなんて思うんですね。
「所変われば品変わる」に近く、
でもまたちょっと意味的に違うんだけども、
どうやら「自身の存在」は変わらないはずなのに
場所が変わるとまるで扱いが変わってしまう。
「ああ、よくぞ来てくれた」と崇められることもあれば、「シッシッ!あっち行け」と煙たがられる存在にもなりうる。
「適材適所」てやつでしょうか。
学校でもそれに近い現象が起こる。
そもそも、一つの学校という世界のルール上において、一定数の子どもは、はなから「不利」な状況・条件を突きつけられているのに、「いいからお前はここにいろ」という教師による義務・強制が横行している。
というかそういう雰囲気がある。
そんな無自覚な乱暴により、
「なんでこれができないんだ!」と、
子どもたちを「できないムチ」で叩きつけ、
執拗なまでに落ち込ませる。
違うんだよなぁ。
「なんでできないんだ」という乱問に対する答えはシンプルで、「その学校という一つの世界のルールでは、弱者になっているだけ」なんですね。
別の学校や違った世界に行ったら、
そんな扱いは受けないと思う。
ルールが違うもん。
要は、場所を変えるだけ。
ゲームが変われば「嫌われ者のジョーカー」が「切り札のジョーカー」に変身するイメージ。
学校にいる子どもも一緒。
もっとなんだろ、「イチバン」という表現だとがめついので、、そうだな、月並みの言葉だけど、つらい思いをしている子どもも輝けるはずなんですよね、場所を変えるだけで。
トランプゲームをしてたら、
そんなこと思いました。