指導案作成に苦しめられた去年の今頃

去年の今ごろは初任研の一環で、

研究授業をした。

 

自分のとこは、「初任者は校内で公開授業を2回する」という文化があるのだけど、他の自治体はどうなんでしょうね。

 

まあ、この時期は、ちょうど2回目の公開授業でした。

 

「指導案とはどうあるべきか」と

書き方を中心に教わったけど、

今ではほとんど忘れてしまっている。

 

構成とか言葉遣いとか、ありがたいことにいろいろとアドバイスをいただきましたが、そのどれも記憶に残っていません。すみませんね。

 

何回も「起案しては訂正」の繰り返しで、

「この時間は本当に無駄だよなぁ」と、

ぷんすかぷんすかしていたよね。

 

でも、懐かしいだけの記憶になった今。

 

記憶容量が限られているのが脳で、

大事なものは長期間保存できるけど、

そうでないものは淘汰的にしっかり忘れる。

 

まあ、わざわざ記憶しなくても、そのとき指導を受けて出来上がった成果物を、それから先ずっと参考にすれば、いくらでも大量生産できるのが指導案だと思っているのがでかいのだと思う。

 

パズルのピースみたいなもので、

必要に応じて単語や用語を変えれば、

どうとでもなるのが指導案。

 

その分、指導案における語彙数だったり言い回しに限りが出てくるので、「こいつ使い回しか?」とすぐに勘付かれると思うのですが、そのときはそのときかな。

 

というか、「指導案がないと授業じゃない」という考えは、

これからもまだ続くのでしょうか。

 

パラダイムシフト的に考えれば、「指導案は大事」と考えている層が、現役引退だったり逝去されると、指導案支持者の数が少なくるので、「指導案軽視者」が結果的に多くなるわけでありまして、まあ、あと数十年といったところでしょうか。

 

そもそもどれくらい指導案支持者がいるのかわかりませんけど。

 

1年経った今でもこうやって指導案の存在をグチグチ言っているので、ぼくは本当にソレが嫌いなんだなとわらけてくる。