高校時代はあとの祭り
計算系が苦手だったため、高2時点の文理選択はもちろん文系。
「英語が5教科の中ではできていた方」
「ほな、文系やな」
という浅っい進路選択でした。
高校時代の理科は生物を選択していた。
理科と言えば、化学をはじめ、
生物、地学、物理じゃなかったかな。
2年生以降の理科は、文系は化学の履修は必要なかったため、生物or地学の選択制。
地学って計算が多いイメージがあったから、暗記ならまだできるかもと、生物を消去法で選んだ。
2年生になって生物の授業受けてみたけど、当時はクソおもしろくなかったですね。先生の教え方が悪かったと言えば「結局は責任の擦り付けかよ」と非難されそうなんで声を大にして言えませんが、でも、おもしろいとは思えなかったのは事実。
自分の生活に全っ然関係なかったんだもの。
というか、結び付けれなかったのか。
「センター試験の一教科」としか見れなかった。
苦手は苦手でも、点数は取らなきゃいけない。
けれど授業では何も学びがない。
授業中に内職(自分で買った本をこっそり読む)するも先生にバレないようにして読む必要があって、集中できなかった。
わからないところがあっても、友達に聞くことはしなかった。
変なプライドがあって聞けなかったんです。
だから自力で調べて無理やり納得するしか方法はなかったから、成績なんてすぐ頭打ち。
3年生になると、もう諦めはついていた。
勉強は一応はするのだけど、これ以上は伸びないだろうと勉強に身が入らない状態が続いていたし、「ま、どうせこの先使うことないっしょ、生物の知識なんて」といとも簡単に合理化して、学ぶ理由を消していた。
そんなことないっすよ、過去の自分よ。
大学生、なんなら大学院生まで「高校生の頃の『生物は捨てる』という判断は間違っていなかったし、なんなら英断だったよ。脳のストレージ的にさ。」と思っていた。
でも社会人になって、それなりに健康に気を遣うようになって、栄養学の本を読むようになった今。むちゃくちゃ生物の内容が出てくる、それもわんさか。
γ-GTPとかMCVとか、見覚えあるけど意味がわからない単語で埋め尽くされている本を今読んでるよ。
ピンと来ないから焦る焦る。
読むのをやめれば済む話なのだけど、興味のある分野だからある程度は理解できる自分になりたいと食い下がらずにはいられない。
「理解できていてかつ説明できる誰か」とつながればいい話ですが、そこはなんだろ、あくまで「自力」を優先したくなる不思議さね。
スーパーでお目当てのものを意地で探したくなるときってあるじゃない、店員に聞かずにさ。あの感じとまったく一緒。
遅くとも高校生の時点で、
「なりたい自分」を設定しておけば良かった。
例えばそうだな、「27歳の自分」みたいなさ。
そのためにはどんな知識が必要か、
逆算しておけばよかったとつくづく思う。
「大学受験」というまやかしに惑わされずに、良識な知識を吸収しておきたかったなと。
シミやそばかすのない細マッチョのハンサムな健康体
→栄養・美容
英語をそれなりに流暢に話せちゃうSE
→語学・HTMLとか
お金をうまく使いこなせる
→金融
そういう理想的な大人を思い描いとけばよかったなぁって。
でも、そのためにはきっと「こういう大人になりたい」と思えるたくさんの人と会っておく必要があったよね。
ああしておけばよかった、をつらつら書いてますが、実際どうなんだろうとは思う。
高校生って青春じゃんね。
そこまで真面目に将来を見据えていないで、バカを追求してた方が楽しいもんだし。
それに、計画的偶発性理論にもあるように、「万事は偶然のつながり」じゃないすか。ガッチガチに計画するのもどうかと思うわけであります。
でも、ぼんやりとした計画、それこそ「大学行って卒業して何かしらの職に就いて働きまーす」みたいなもんよりかは数億倍マシなのかしら。