歴史の賞味期限を気にする

歴史にはロマンを感じるのだけど、心のどこかで「嘘つけ」と思っていたりもする。

 

100年前はギリギリ大丈夫だけど、それこそ「200年以上前」とか「1800年代には」とかの話になると、「怪しい」と思いながら話を見たり聞いたりする。

 

文献や写真のような確固たる証拠が残っていても、「どうせ改ざんして、辻褄を合わせて、うまーく現在にリンクさせてるんでしょ」といつも懐疑的だ。

 

だから、たとえば「飛鳥時代にはこういうブームがありました、ほれこれ証拠。すごいでしょ」と言われても、「うさんくさい」と一蹴してしまう。

もちろん体や顔では「ほげー!」と自然なおったまげリアクションをとるんですけどね。

 

どうもぼくの性格は捻くれていて、過去に遡れば遡るほど、「信用しないセンサー」が働くらしい。そんなわけないじゃんか、と。

 

歴史を直視しろ

とか

人は歴史から学ばない

と言われても、「ごめんて」と謝るだけ。

 

といっても、 「自分が正しい」と思ったものは、たとえ昔の話でも信じちゃうんですけど。都合のいい人間ですこと。

 

 

でも、今を生きるぼくやまわりの人たちが「これは揺るぎない事実だし、ひっくり返ることはない真理」「そうだ、証拠として本、動画、写真、なんならデータで、後世に残そう」としたところで、それも200年たつと、200年後のぼくのような誰かにとったら、「うさんくさい」と門前払いを食らうのだろうか。

 

人間が歴史を繰り返す原因は、きっと、なんだろうな、そういうぼくみたいに、賞味期限を気にする人が一定数いるからでもあるよなぁとぼんやり思ってみたり。