他責思考でもあるし、事実でもあるし
大学院生の時、よく西川先生の口から「業(ごう)」というワードが出てきていた。
英語でいうところのKarma(カルマ)。
よく「業が深い」なんていう使われ方をしていて、日本語で解釈するならば、「罪と悪を多く背負っている」なのかな。
なぜかイマイチ使い方がわからない。まあ、いいか。
最近、卒業した教え子とやりとりをすることがあった。
ここには書けないような内容の苦労をしているようで、電話口で「そっかそっかー、でもすごいね」と励ましたり、「ぼくの方でOOしておくよ」と、サポートを提案をしたりと、そのときできることはしました。ただ、物足りなさはある。
「教員だからOOまでしか関与できない」というラインがある。
それがものすごくもどかしい。
本当は全面協力で、助けてあげたい。
なんせ可愛い可愛い生意気な教え子だから。
でも、そのラインを越えると、
自己犠牲が待ち受けていることが容易に想像できる。
長期的な問題になりそうなので、これからも継続して支援していくつもりですが、なんだかなぁとモヤモヤする。
その生徒が在学中、自分にできたことってなんだっけなと思う。
でも、「狭い人的世界」を提供している特別支援学校に根本的なシステムエラーがあるよなぁと思わずにはいられない。
ああこれが、俗にいう、他責思考ってやつなんだろうな。
教師として在学中にできたこと、あったろうに。
でもそれは、あとがき的な理想論。たられば。未来という「今」から「過去」に向けてのイチャモン。どうとでも言えるわけです。
それでも、「いやいや、そもそものシステムだよ!」と思わずにはいられない。