自分がなりたい大人とか教師とか

今日は自分が顧問をしている女バレの部活へ。

 

良いのか悪いのか、ブーブーいっていた土曜の部活も、慣れてきました。

別に妻と遠出する予定は夏までなさそうですし、彼女は彼女で今日は予定があって1日中チャリで出かけてました。

そうじゃない日は基本家でくつろいでいます。

 

「そんなのでいいのか夫婦の休日は!」という意見もありそうですが、そこには正解はなくて、本人らが良いと思ってればそれでいいのかなと。

なんだかんだうまーくマッチしているので、たぶん大丈夫でしょう、今のところは。いざとなれば「次の土曜日の部活は、なしー!」とできますし、いざとなれば。

 

まあまあ言うてますが。土曜部活のいいところはなんといっても、毎朝しているHIITや筋トレ以外の運動ができるってこと。良い気分転換になります本当に。

 

そんな今日の部活では、追い込むトレーニング(走り込みとか)が自分らにはないよねと部員が問題提起していて、「先生なんかないですか?」と意見を求められたので、「じゃあ、効率よくHIITしますか!」と、毎朝自分がやっているメニューの一部を提案。練習開始10分でダウンさせました。どうやらきつかったみたいです。高みの見物ですね。

 

もちろん自分も一緒にやりました。

 

ほら、コーチが「あれやれ!これやれ!」という指示だけだと、部員としてはなんかしっくり来ないじゃない。「コーチだから自分はきついことしなくていいし、言いたい放題!」て。

ん?自分だけかしら?

少なくともぼくは学生時代そう思ってました。

こんにゃろうめ!て。ガキだったからか、心が狭かったんですかね。

 

今もその幼い気持ちは保ったままなのかも。

 

最近、生徒の前では「自分やろう」という姿勢でいます。

自分がもともとそうなのかは知らないけど、「なりたくない大人に自分がなっていた」にはなりたくないなと思ってまして。

 

というのも、「OOができるといいよね」「△△はしちゃダメだよね」「~~はしなくちゃ!」と一丁前に人前では言うくせに、自分はできてない大人にはなりたくないなと昔から思っていて、生徒に勧めるなら自分自身が「できる・やる・しない」を徹底する必要があると思ってまして。

 

その思いは、歳を重ねるごとに増すばかり。

 

裏を返せば、自分が「できない」ことは、教師としても人間としても、誰かに強要はできないです、正直な話。だから生徒指導は苦手。納得できてない上に「自分はどうか?」という視点に立つと、なおさら。

 

指導できても、「世間的にはアウトだよね。ま、ぼくもできてないことがあるのだけどさ。」といった具合になる。

 

そんな感じだから、最近は「最適な勉強法ってなんだろう?」と、自分を被験体にして物理を勉強してます。「けテぶれ」とネットで拾った自分がいいなと思った勉強法を融合させて、勉強してます。

というのも、生徒が「勉強の仕方」を確立できてないのに「勉強大事っす」と言ったところで響かない。生徒間で多様な交流があっても、「その瞬間」が訪れるのはぶっちゃけた話、時間の問題。生徒の勉強のやる気を起こすのは早いに越したことはないし、「生徒間の交流の先に~」と呑気なことを言っててもしゃーない。

 

それなら、ぼくの方で一石投じた方が状況が変わる気がする。もちろん決め打ちする気はさらさらなくて、「ヒットしたらラッキー」程度。

 

なんで物理か。中3以来だし、なんなら一番の苦手教科と自覚していて、本当にわからな過ぎるのですが、だからこそだと思います。

「こういう勉強法が有効だったよ」と実験結果を生徒に示すには、あえて伸びしろのある教科がいいじゃないですか。

 

教師がすることじゃないという声もありますが、まあ、「こういう勉強法あるらしいよ、知らんけど」と無責任に紹介するよりかは良いに決まっているし、何よりも、純粋に「自分がしてみたいと思ったからしてる」だけ。

 

最近はそんな感じです。

 

そうそう、『』の進捗状況はボチボチです。

先月行ったアンケート結果も、クラスによっては良くもあり、まずまずでもあり。

 

そんなもんだから、「ね?『』の方がマシでしょ?」と言うために、『』ではないアクティブラーニングをやってみたりしてます。もちろん息抜き程度に。

クラスの様子を見ながら、週1くらいでそういう時間を作ってみようと思います。でも、最終的には『』の文化が本当の意味で馴染めばいいのですが、さてどうなるか。

 

子どもたちの20~50年先の長期スパンの幸せを本気で実現するために、へこたれてられないですね。めげずに、おごらずに、したたかに。