感情感染症
本来は自分自身から怒るべきことなんだろうけど、
鈍感なところがあって、怒るべきところで怒らないということがある。
不発というんですかんね。
自分で言うのもあれですけど、本気で怒るってこと、
基本・普段、ないんですよね。
ぼくが「怒らない人間」と言っているわけではなくて。
もちろん自分の大切なナニかを傷つけられたら、怒り狂うと思う。
スマホとかパソコンとか車とか、そういうレベルじゃなくて、
もっとこう人間的なもの、例えば、人だったり心だったり道徳観だったり。
そんな怒りの沸点低めのぼくではあるけれど、例外もあって
自分が受けた仕打ちを誰かが知って、
その人がそれに対して怒りを覚え、憤慨している様子を見ると、
自分もつられて沸々と怒りがこみあげてくる、質の悪い性格の面もある。
なぜかはわからない。感覚としては、
ケトルに入れた水がジワジワと音をたてながら沸騰していくあの様子と瓜二つだ。
相手の感情が乗り移るというか、感染するというか、共鳴するというか。
一緒に雄叫びを上げてしまう。
「よくよく考えればこれは怒るべきことだよな」と。
おかしな性格の持ち主ですこと。
そんな話。
ぼくの『』大原則
僕の中で、『』の大原則は2つある。
1つは、「みんなが制限時間内に達成すること」
例外なく、誰も取り残されず、しかも、時間という有限空間の中でどういう結果を残すかを重視したいからだ。
2つ目に、「委任」だ。
「教師がどれだけ子ども集団に任せられるか」が、1つ目と同等レベルで重要だと思っている。
結果を出そうと子ども(たち)なりに考えて行動しているところへ、子どもの行動に不安を覚えた人生の先輩(?)が「私/僕はそうは思わない」などと助言(蛇足)をする光景がある。
せめて個人の考えを述べるのは、授業の最後にしてほしい。
最中にされてしまっては、萎えるに決まっている。
そして間違いなく子どもたちは先生の顔を伺いながら
これから動くことになるだろう。
「これなら、いいよね..?」「これは..セーフみたいだ」
何十種類何百種類とあるプランを、プランAやプランBに絞らせる窮屈さ。
そして漂う変な緊張。それはもう怖い先生がやる一斉授業の
あの気持ち悪い緊張感となんら変わりはない。
その上で、最高の結果を子どもたちは求められる。
雁字搦め状態でどうやって?という話である。
「子どもに委任できる教師」
それがぼくの理想の教師像。