同期の働き方、ぼくの価値観
先週末は古巣である上越へ趣き、
大学院時代の同期と後輩3人としっぽり飲んできました。
だらしなかった同期の1人は
しっかり小学校の教師やってました(笑)
だらしないというか、心配になるというか、なんというか、「お前教師としてやっていけるのかよ!?」という感じの人だったんですね当時。
それでも今となっては、児童や職場の教職員に慕われているようで、忙しくも楽しい教員生活を送れているようで安心しました。
小学校の先生だから、
初任1年目で担任を持っている。
対するぼくは勤務校では副担任。
基本的には授業ででしか生徒と関わらないぼくは、子どもたちに対する愛情は比較的薄いのかもしれない。
担任持ちのその同期が子どもたちに注ぐソレとは
比にならないくらいの温度差があるなぁ、なんて
話を聞きながら思っていました。
決して”愛情がない”と言っているわけではないよ。
ただ、「担任制」というシステムがそうさせているだけですもん。
もうこの時点で価値観とかだいぶ違ってくる。
ぼくは幸いにも初任で担任を持たなかったおかげで、「やりがい搾取の病」にかかっていない。
ほら、学校の先生って、自己承認欲求が顕著に出る職業じゃないですか。どんなにきつい業務でも、「子どもたちのためなら..」という思いがあるから、自分を犠牲にしてでも頑張ってしまう。
犠牲の先にある感動的な結果に出会うと、
自己犠牲にさらに拍車がかかる。
「なんだよこのやりがい!最高じゃねぇか!」
というエクスタシー。
それに、まわりの教員がそうしているなら、
余計に頑張ろうとする。
一種の同調圧力でしょうか。
「先生の授業は楽しいや」
「来年も先生が担任だったらいのに!」
その声を聞くためだけに、
ひたすら教師が頑張ってしまう。
そんな同期は、7時には学校に到着し、
夜8時に学校を出るのが日常なんですって。
教材研究や生徒対応等で忙しいんだとか。
それでも、不満そうな感じは1mmもなかった。
充実しているから、苦じゃないんですって。
ただ個人的な意見だけど、業務時間内で仕事をすることに意味があるように思えました。自己犠牲をしてまで,,と思ったのが素直な気持ち。
だって、教師(その同期も含む)が何から何までやり過ぎているんだもの。
やらなくていいもの、というかむしろ教師がやってしまうから子どもたちの成長を阻害している業務がありすぎる。
ぼくなんかは、朝のラッシュにハマらないために家を早く出ているので、7:30には学校にいる。それでも8:30までは自分のための勉強を空き教室でしていて、時間になったら「教師」になる。
そして17:00には帰るようにしている。
残業ありきで子どもたちに尽くすのはなんか違うなって思う自分は冷めているのかね。
その同期は今は大丈夫かもしれない。
不満が生じていないのだから。
でも、いずれ長い教師生活をしていると、どこかでスタックする。「このままじゃだめかもしれない..」というそんな境遇に立たされるはずだ。
そのとき、自ら彼が変わろうとするのを信じてます。
そういえば、ポズナーの概念転換のモデルによれば、
1.先行概念への不満
2.理解可能であり、利用可能なものであること
3.もっともらしい内容であること
4.より生産的であること
の4つが満たされれば、人は考え方が変わるみたいです。
参考までに。
まあ、自分は良いと言っているものに
とやかく言うのもあんまり良くないんですけどね。
飲み会のとき、ずっとその同期に「目覚めろよ!」的なニュアンスで呼びかけていた自分が今となってはわらけてくる。