「混ぜるなキケン扱い」教育論

「一人の生徒を一教員が変えようとするのには限度がある」ということを大学院時代、頭に叩き込まれたし、なんなら全くもって腑に落ちている自分がいるから、一教員の「一人の子どもを変えよう」とし、「四苦八苦しながらも『それでもこの成長するまでの過程が楽しい』と言っている」知り合いの教員の話を耳にすると、「いや、でも、なんだろう、、」と微妙な気持ちになる。

 

まあ、特別支援学校に勤務している身としては、「ある程度は子どもにつきっきり」になるのは仕方ないことだと思う一方で、「でも、この子たちが向かう先は、教師というつきっきりのパートナー的存在が隣にいない社会だよな」とも思う。

 

あ、特別支援と言っても、それはそれは千差万別でして、軽度から重度までの障害の重さ、そして種類がある。

ぼくは軽度知的障害の子どもと触れ合う機会が多いのですが、特別支援教育歴2年目の今でも思うのは、「この子たちは、ここに通学する必要はない。一般の学校で問題ない。」

です。

 

なんていうことを特別支援学校歴が長い人にいうと、「あなたはまだ何も分かってない」と好戦的な議論にさらされるので、あえて口にはしませんが。

 

でも、極端な話、少なくとも軽度知的障害と判定された人のための特別支援学校というものは、ぼくはなくてもいいのかなと思う。

 

確かに、簡単な計算ができなかったり、言葉の使い方に違和感があったり、漢字の読み間違いがあったりなど、そういうのは日常茶飯事だけど、大人が口を揃えて脅してくる「社会」という世界では、その不得手は大したことないと思う。

 

結局のところ、「人対人」のコミュニケーションさえ取れてしまえばなんら問題ないですし。

 

そもそも「基礎学力」という得体の知れない箱というか区切りを作ってしまったのが全ての元凶じゃないかと、少し荒い表現ではありますが、ぼくは思っていたりします。

 

多種多様な人間が集う場所から、

「はい、あなたは基礎ができないからこっちね」と隔離されてしまう原因が特別支援学校なんじゃないかと、思っていたりします。

 

コミュニケーション能力を養うには多種多様な人間が集う場所に身を置くのが理にかなっていて、他者とコミュニケーションを取らざるを得ない状況をどうやって作り出すかを工夫するのが学校の役割だと思います。

方法はここでは言及しませんが。

 

それなのに、多種多様な集団からあえて離す。

 

もちろん障害の状況に応じてですが。

 

コミュニケーションが大事と言っても、どうしても特性的に厳しい人はいるので、そこは考慮して。

 

何度も言いますが、障害の重さによるので、全ての特別支援学校に対して言えることではないですし、特別支援教育に従事している人を非難しているわけでもありません。

 

ただただ、

個人的な見解に過ぎないです。

 

青二才と思われても構わないっす。