生徒にとっての転ばぬ先の教師

生徒を生徒とたらしめる存在はいつだって教員だよねと、教員3年目ですが、常日頃、生意気にもそう思ってます。

そんなふうに、教員という存在を認識しています。もちろん、自分自身にも。

 

教師-生徒の関係が成立するのは、学校という場所が「教える立場-教えられる立場」が前提にすべてが設定されているからなんですね。

 

生徒が悪いことすりゃ教師は叱るし、生徒が間違った方向に行けば「こっちだよ!」と止める。「教師が」が中心になっている、そんなデフォルト。

 

ぼくとしては、さっさと教師という存在は生徒または生徒のコミュニティから抜けて、そのコミュニティが主体となってあらゆる課題を解決していく方向にもっていきたいんですが、それを良しとしない教員も一定数いるわけで。

 

「自分が支えなきゃ」と教師という役割を全うするという、ぼくからしたら勘違いしたままひたすら自己有用感に浸っている、そんな気がする。

「私が〇〇した」という功績欲しさに、ひたすら頑張っているイメージ。勝手なイメージなんでしょうけど。

 

そのサポートが、良いのか悪いのかはわからないけど(ほとんどは過保護だから悪いのかも)、さっさと取っ払えばいいのに、と思う。

 

支える対象がいなくなれば教師じゃなくなる、と思っているならそれはお門違い。

むしろ支える対象がいないってのはいいことじゃないですか。

 

自分なんかが支えなくても自立してやっていけるって、願ったり叶ったり。

それなのに、逆にそうさせない教師という存在を見ると、なんでかなぁと困惑する。

 

特別支援学校はその雰囲気が顕著です。

私が支えなきゃ、が強すぎる気がします。

教師中心の存在感。

 

サトシ<ピカチュウ
のような

承太郎<スタープラチナ

のような。

 

ぼくが特別支援学校の文化を好きになれない理由はきっとここにある。

教師が子どもたちに任せきれないところ。