生徒にとっては一人の教員

ふと思ったのは、小学校~高校までに、ぼくと深く関わった先生全員を、わりと鮮明に覚えているなぁと。主に担任は。副菜として、その他の教員も。

 

記録程度に、名字のイニシャルで列挙してみよう。

 

小1~小2はY先生。

小3はK先生。

小4はまたもやY先生。

小5~6は別のK先生。

 

中1はI先生。

中2~中3は別のI先生。

 

高1はH先生。

高2~高3はK先生。

 

うん、古い記憶だと、20年以上前だけど、難なく掘り起こせた。

酸いも甘いも、いろんなエピソードもそれなりに思い出せる。

 

記憶自慢をしているわけじゃなくて、ここで言いたいのは、「教員からしたら、何十人・何百人のうちの一人の生徒だけど、生徒から見れば、教員は唯一無二の存在だよな」ってことです。

 

教員による何気ない言動で人生が狂う(教え)子もいれば、逆に人生が良い方向に進んで行くこともある。

教員の魂の込めたメッセージが、生徒指導的な意味で意中にない生徒に届いて後世ハッピーになる人もいれば、むしろ逆効果で闇に落ちる人もいたりと。

 

教育って日々の複合的なものが思いがけない形で後々変化するから、責任重大だけど、それがまたスリルがあっておもしろいというか、趣きあると思うんです。

 

そんな風に考えると、今ぼくが関わっている生徒、あるいは卒担をした生徒にとって、ぼくという存在は何かしらの形で彼らの中で残り続けるのかしら。それとも時間とともに淘汰されていくのか。

もっといえば、ただ記憶とか記録に存在だけが残るんじゃなくて、「(良い意味で)影響を受けた教員」に選ばれるのかしら。

 

それはわからないけども、まあ、でも、教職という仕事についている限りは、そうなれる可能性はむちゃくちゃある。ので、今を、そしてこれからを、本当の意味で大切にしたいものです。特に、生徒との関わりを。