たられば口調

教育に限らず、何事も「たられば問題」は付き纏うなぁとつくづく思わされる。

 

家のことで言えば、今のアパートに住む前に「ソファを買おう」となって、妻と自分の提示するソファがそれぞれ違ったことがありまして。

 

「ここはぼくので行こう」となってぼくの案を採用。購入後、届いたものを組み立てて一定期間使用してみると、「なんか思ってたんと違った」となりました。

妻は特に何も言っておらず、「そう?よくない?」と言っていますが、ぼくとしては、「もし、妻のを採用していたら」と今でもたまに思うことがある。

 

もう3年も使ってるので、「悪くないけどね」と思ってますが。

 

学校でもそう。

 

生徒に関する進路や指導で、「もっとこうすればよかったんじゃないか?」という批判を浴びることはあるわけですが、「たらればだなぁ」と内心思っているわけあります。

 

結果論という風呂敷を広げてるだけじゃないかと思うんです。

もちろん、ぼくだって「なんでそうしなかったんだ」と、誰かの行動に対して思うことはあるので、他人ごとではないのですが。

 

たらればの先にあるのは、

早い話が「後悔」なんです。

 

「もっとこうしておけば」という叶いもしない過去へのタイムリープを言葉にして悔しがっているだけに過ぎない。

だってそのとき時点では未来はわからなかったんだもの。

未来がわかった今、そりゃ「たられば口調」に必然的になる。

 

たられば口調になる人は、(自戒の意味も込めて言うと)そのときの判断がそれだったから今これで済んでるのではないか?というポジティブさが足りなかったりする。

もちろん、ケースに依りますが。

 

例えば、ケーキ作りで砂糖と間違えて塩を使っていたら、「あほんだら」となりますが。

 

生徒指導を例にしてみようかしら。

 

あのときの対応Aが結果Aを生んだとして。その結果Aがあまりよろしくないものとしましょ。で、「なんで対応Aにしたんだ。なぜ対応Bのようなものにしなかったんだ」と批判が来るわけですよ。ぼくはそこでいやいやと思うのね。

「対応Aだったから今これで済んでいる。でも、あなたがおっしゃっている模範解答的な対応Bをもししていたら、今よりもっと悪い状態になっていた可能性だってあるわけよ」と。

 

そういう可能性を常に頭に入れておきながら物事を判断したいなと思う今日この頃。

 

殴り書きと言うか殴りタイピングと言うのかな。読み返してないから矛盾ありそうで怖いな今日の内容(笑)

まあ、たまにはね。

 

ちなみに、英語で「たられば」は

woulda coulda shoulda(ウダシュダクダ)

なんていう風に使います。

英語の先生らしく締めくくる。