「きっかけ」がないと人は変われない

ちょっと汚い話しますね。 

 

昔は,「自然発生説」が人々の中では主流でした。

肉を放置すると,ウジ虫が自然と勝手に発生する,という考え方です。

 

現代でいうところの,「ウジが湧く」の表現に通じるのかな。

 

ただ,1668年に,生物学者のフランチェスコ・レディが,「それはちょっと違うかもよ」と,ある実験でそれまでの当たり前を覆したんですね。

その実験でレディは、6つのびんを用意し、それを3つずつ2グループに分けた。それぞれのグループの1つめのびんには未知の物体を入れ、2つめには魚の死骸、3つめには生の子牛肉の塊を入れた。

そして一方のグループはびんの口に目の細かいガーゼをつけて空気しか出入りしないようにし、もう一方には何もつけないでそのままにしておいた。

数日後、びんの口に何もつけなかった方はハエが自由に出入りできたため蛆がわき、ガーゼで覆った方には蛆はわかなかった。

次に彼は、蛆を捕らえてそれが変態するのを待つ実験を行った。蛆はハエになった。さらに死んだ蛆やハエを動物の死体や生肉と一緒にガーゼをかけたびんに入れておいたが、蛆はわかなかった。

 

この実験から,ウジはいきなりパッと現れるのではなく,ハエに産み落とされることで現れることが証明されたんですね。ウジの正体はハエだったんです。

だから,これまで「ウジが湧く」という表現を真に受けていた自分は,おバカなことにこれまでずっと「自然発生説」派だったので,この事実におったまげました。

(ハエって小さな隙間からでも侵入できるからこれもまた驚き)

 

でも,よくよく考えてみりゃ,当たり前なんですね。

カビとかの菌ならまだしも,何もないとこに生物的な命が宿るって,無理がある話だよなぁ,と。

 

ぼくや1600年代の人々は,その当たり前に気づけていなかったし,疑うことさえなかった。何かのきっかけがない限り。

 

1600年代の人々は,レディさんが「これちょっとおかしいんとちゃいます?」という疑問をぶつけてきたという「きっかけ」によって気づけた。もしかしたら,街頭演説をレディさんがしてて,それをたまたま見た人が,「なんだそれ」とバカバカしく思いながら家に帰って,ハエが集ってるごみをふと見て,「もしかして..」と思ったかもしれない。きっかけですね。

 

ちなみにぼくは,2週間前の経験がきっかけでした。

5日間,生ごみを室内のごみ箱に放置していたんですね。

放置というより,ふつうに捨ててただけ。

ただ,袋に包むことなく,ポイっと。

 

ごみ回収前日に,さて家じゅうのごみを一つの袋に集めようかと思い,生ごみ入りのごみ箱を傾けてごみを取り出したら,嗅いだことないすんごい悪臭が口と鼻の中に広がる。

えぇぇと思って空っぽのごみ箱内をおそるおそる覗き回すと,ウジさんたちが6匹くらい蠢いていて,叫んだことないすんごい奇声を上げました。

こういう経験を先日,したんですね。

それで,その日中に,ウジのことをめちゃめちゃ調べた。

で,今に至る。そんなきっかけの話。

 

話がだいぶ逸れましたが,

結局のところ,人って,何かきっかけがないと概念転換できないんですね。

ポズナーで言うところの,

「1.先行概念への不満が生まれる」がそれに当たるのかもしれませんが。

 

イノベーター理論で言うところの一つの製品の広がり方もそうで,それぞれのレイヤーに位置する人間には,きっとそれぞれのバックストーリー(きっかけ)があるはずなんですね,大なり小なり。

ただ単に,「周りが使ってるから」という単純な流行とは別の,何かきっかけが隠れてたりするのかなぁって最近思ったりもする。

 

1つの製品にしても,理論にしても,教育にしても,

「これを広めていきましょう!そんで,“きっかけ”を与えていきましょう」とすりゃいい話なんですが,「きっかけ」って人それぞれ違うから,ピンポイントで狙って行動するのは難しいよねぇ,

と親戚のおじさん的な言葉を並べてみる。

 

散々書いといてあれですが,物の広がり方ってそんな複雑じゃないのか。

なるようになる,というか,人々が必要性を感じたらあとは洗濯機のようにお任せ,て感じなのかな。