ぼくのこれから、教育のこれから
ぼくは、いつも朝から晩まで研究室にこもっている。
別に四六時中、個人研究をしているわけではない。
好きな本を読んだり、他の業務をやったり、イスを3つ並べて寝転がったり、談笑したり、そんな過ごし方をしている。
研究体質ではないから、一つの事に没頭するのはなかなか難しい。ましてや研究なんて。。
1日中一つの空間に居続けると見えてくるものがある。
それは、西川先生は散歩がてら、気分転換がてら、
一日に3回ほどゼミ生の研究室にやってくること。
午前1回、午後1回、帰宅前に1回。
そこで何をするかと言えば、基本は短い談笑である。
感覚的には、
授業が終わったあとの10分休みに席が離れてる友人のとこへ行って、他愛もない話をする、あんな感じに近い。てか、それそのもの。
昨日もそんな感じで、午後にいらっしゃった。
いつものようにバカ話して終わるはずだった。
でも、珍しく真面目な教育の話になった。
ここでなぜ珍しいのかというと、
日々の談笑タイムでは、ぼくの場合、本当に他愛もない話か業務連絡しかしない間柄であるからだ。
内容はざっくり言えば、
未来の教育について。
そこでの対話でわかったことは、
これからの、変動の激しい教育界で教員が生き残るために
必要なものは大きく分けて2つの要素らしいです。
1つは個別最適化が実現された教育ができて、なおかつソサ..
まあ、言ってしまえば『学び合い』の考え方を熟知しているかいないか。
次に、「もう一つは、お前が知っているやつがやっていることだよ」
と、おっしゃった。
誰の事??
で、頭が白くなった。
3秒の沈黙後、「こいつだよ」と、ぼくの隣の机(空席)をさした。
「あぁ、こいつか。」
とすぐに答えが見えた。
「人脈ですね」と聞くと、頷いた。
こいつとは、西川研究室のある一人のゼミ生。
名前は伏せるが、特徴で言えば、自由気ままで、フットワークは水素の次に軽い(=行動力ハンパない)人。この人は、いろんな各地での『学び合い』の会はもちろん、教育系や他分野でのコンテスト、フォーラムに出てて、いろんな人と交流がある。まあ、べた褒めで終わらせたくないので、強いて1つ欠点を出せば、それゆえ、やらかすときはとことんやらかす。うん、言い得て妙。
話は彼の紹介文に逸れてしまったが..
要は「どれだけの人と繋がっているか」、
これが2番目に大事なんですって。
というのも、これからわざわざ学校に行かなくても子どもたちが学べるシステム、N高(N中)が台頭している現実。この勢いはもう止められないのと同時に、公立校の事実的崩壊が迫っていることを意味する。
そんな中で、「先生が授業をする」という概念がない『学び合い』実践者(orその考えを熟知している者)が、生き残るのは間違いないらしい。
でもそれだけでは足りなくて、
人脈をどれだけ駆使できるかもかなり重要なんだそうな。
きっとこれからの教育はN高のようなシステムにベクトルを向ける気がする。
教えるのを仕事とした教員、というより、生徒をマネジメントする教員、が近いんですかね。それにシフトしていく。公立校も、いつかは..。
それを前提に考えると、
職員に求められるものって、生徒をマネジメントする力(ここでいうマネジメントは、個人的には学級経営とかのマネジメントとちょっと違うニュアンス)に加えて、どれだけ生徒が求めるものを限りなく実現させてあげることができるかだと思う。
もし仮に生徒が、
「音楽業界に興味があって、インターンとかしてみたいのですが..」
という願望があったら、それを実現できそうな人を自分とつながってる人から探して、交渉して、最終的に実行させる。
こういう可能性が必要なんだと思います。
それができない者は、生徒とあまり関わることのない、事務職だと思います。
生徒が書いた論文やエッセイ、テスト(←特に、AIが採点できないもの)の添削、採点が主な業務になるかと思われます。
まあ、でもそうなってもおかしくないし、ごくごく自然な流れだと思う。
要約すると、
この2つを持ち合わせていれば、これから先も教員として生き残れる。
でもぼくには後者の要素がまだまだ少ない。
そう悟った10分間の談笑、もとい、対談でした。