『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』

可愛らしい表紙と「ずる」「行動経済学」というワードに惹かれて購入。

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人間がする不正,いわば「ごまかし」が,なぜ起こるのかを,

膨大な研究結果から導き出されています。

 

ゴルファーが人目を盗んで誤ってチョコンと触れたボールを合理化して「一打」と数えずに,「さあ打つぞ!」と,あたかも一人で「気を取り直して!」とするあの行為とか。

 

長年行きつけにしていたお気に入りの歯医者に,歯の詰め物をすることになった男性が,奥歯なのに白い詰め物で処置されてしまったのに,歯医者は無意識に「患者のためを思って」,患者は「長年の付き合いなのだ,これがベストな処置に決まっている,ありがたい」で両者落ち着くあれとか。

(通常,銀のアマルガムは,見た目は劣るが安価で耐久性は抜群なので,奥歯に詰められる。一方,白い複合材料は,見た目は良いが高価で割れやすいので,審美性が実用性にまさるゆえ,前歯に使われる。この事例では,歯医者に利益が生じている)

 

コインで裏が出たら車Aを購入,表なら車Bだ,と決めておきながら,心の中では車Aが良いと思っているから,裏が出るまでコインを投げ続けるあの行為とか。

(これは自分へのごまかしですが)

 

本の中身は,ぼくらが日常的に「自分から他者へする」ごまかし,そして「自分が他者から受ける」ごまかしの例をふんだんに取り上げていた。

 

「わかるわかる!」と共感しながら,「分析的に,そういう理由からそうなるのか..」と納得する箇所もあれば,「いや,俺は違うね」と意地を張る箇所もあった。

 

最後まで読んでみての感想は,シンプルに,人間だれしも,ごまかしはしてるんだなぁ,でした。

小さいことから,大きいことまで。

大きいというと,まあ,例えば,企業の実績・収益を実際よりもよく見せることで,顧客の獲得を図る行為とか。

 

自分が手にすることができる「利益」と自分が受けるであろう「負担」を天秤にかけたときに,どちらが自分にとって良いのかを判断しているから(費用便益分析)生じるわけですが。そういう意味では「流石,考えて動く動物,人間!」,なんて感心したり。

 

でも,ごまかしの動物,我々人間にしては,

事件性のごまかしは少ない方なんじゃないか,とも思える。

汚職している人間,密漁,強盗,,確かに,ごまかしの延長線上を超えた人間はこれまでたくさんいましたし,これからも出てくると思います。

 

でも,自分の周りを見回したとき,「私の身近にはいないなぁ」,あるいは「数人くらい当てはまるかな」,がほとんどじゃないでしょうか。

そして,当の本人が,客観的に見て,有害な大きなごまかしをしていない。

 

そう考えると,たったの一部が「ものすごい」ごまかしをしている。

それで収まってるから,それなりに世界は回っているのかなぁ,なんて,楽観的にぼくは捉えてます。

 

 

そういえば興味深い事実がありまして。

人間は,ごまかしが許されている場面でも,

あることをすれば,それを食い止められるんだとか。

それは,そのごまかし行為が起こる前に,信条だったり願いを提示(紙に書いてあるものを読ませる)して,それを知った(読んだ)うえで,署名させることでした。

キーなのは,読んだ後ではなく,読む前に,なわけです。

そうすることで,だいぶごまかしが減ります。

例えば,キリスト教信者に聖書を読ませたら,

うんとごまかしは減ります。

まあ,「ルールを守らせるために」これを日常にあふれている書類関係に取り入れれることは可能か,と言われれば法律上厳しいわけですが(一種の詐欺になりかねないので),もうちょっとミクロな世界でだったら活用できそうですね。

授業とか?

 

また,宗教上見られる,ラマダン,懺悔,ヨム・キプルなどの定期的な「リセットの儀式」があることで,自制心が働き,ごまかしを阻止できる可能性もあげていました。

私たちのもっと身近なもので言ったら,失恋,転職,誕生日,ですかね。

 

あと,「仲間からの監視」も有効なんだとか!

複数人での協働作業だと,どうしてもごまかしが横行しやすいですよね。同調圧力,気のゆるみ,見逃し..

つまり,そういうところでなら「監視が効果抜群やん!」

と思いきや,,条件がありました。

 

心理的に距離があるパートナーに利益が行き渡ることがわかると,自分の利益を優先するときよりもごまかしが増加するんだとか。

これよりもさらに増加するのが,そのパートナーが「親しくなった監視者」という関係になったときです。

唯一,ごまかしが起きないのが,口すらも聞いたことがないただのパートナー(監視者)と仕事をするとき。

 

『学び合い』でよく言われるのは,「周りの目はごまかせれないよ」という言葉。

この場合は,どうなんでしょうかね。

 

これはまた条件が違うのかな。

 

こういうときは,ごまかしが確認できた時に,

教師がどう語りかけるか,が肝になるんでしょうけど。

「教師の語り」そのものが,「リセットの儀式」になればいいのかなと。

 

まあ,ぼくの意見としては,ごまかしという行為が人間に起きるのはいたって健全なことだと思いますし,それを完全に防ぎたいとは思いません。行きすぎちゃうと,結局ぼくが嫌いな『トップダウン方式』,学校用語でいえば『教師主導』になりかねないですし。

 

ただ,たまに,ふらっと,

「いけないと思うよ」

と言うリセットの声がけがあればいいのかな。

 

読み終わったあと,そんなことを思ってみたり。