脱・英語不可欠論

小学校英語、頑張んないとね!グローバル人材、育てるために。」


「日本はアジアの中でも英語力、最底辺!アカン!」


最近、火に油を注ぐような、という表現があってるのかわからないけど、英語の注目度が無駄に上がってる気がする。
と、1,2年前のぼくはこういう発想まったくしてなかったけど、大学院に進学してから考え方が変わってきたと思う。

たぶん、『学び合い』の研究、AIのめざましい発達等が深く関係してると思う。

必要だと思った人だけ勉強すれば良いじゃん

その一言に尽きる。

まあ、言ってみれば車の運転と考え方は一緒だ。

今、ぼくが暮らしている上越市は、とてもじゃないけど車がないといろいろと不便だ。買い物とか勉強会とか娯楽とか。ありとあらゆる僕の欲を満たしてくれるのが車の存在だ。

逆に、ぼくの兄はどうだ。
彼は、大学時代はそれこそ車がないと過ごせないような田舎に住んでいたため、車を所有していたが、社会人になった今、すっかり東京のシティーボーイになってしまった。東京は、少なくとも、ぼくが今住んでいる上越、兄が住んでいた田舎に比べ、車なんかなくてもいろんな施設を楽しむことができる。
それゆえ、電車ですべて解決。
「そもそも東京で車を持つなんて、維持費半端ないって!」
と兄は言っていた、
気がする。

英語もイメージとしてはそんな感じだと思う。
自分の将来を考えたとき、必要だなっと思ったなら、習得すればいい。

別に必要なさそうだなあ、とか、
グローバル化とか言ってるけど私には関係ないもん!
って思えるなら、特に勉強しなくていい。
ただ、翻訳機をうまく使える能力はあったほうがいいと思うが。

今の英語教育って、車の例で言わしてもらえば、
「あんた、新宿に住んでるっぽいけど、とりあえず車持っときいや。
あ、できればベンツかBMWがいいな。」

と、要求しているよなものだと思う。
必要ないのに、高級車(=ハイレベルな英語)を持ってね、て。

お国の個別最適化ではなく全体均一化を図ろうとする
考え方が、どうも苦手だ。

まあ、英語はできて損はしないよ、
ということは断言できるけど。

もしできない人が、できなきゃダメな場面に出くわしたなら、
本当に必要だと思った人は、それを機に勉強始めるだろうし、
それでもまだなんとかなるって思える人は、
英語ができる人とつながり、その力を利用するテクニックを
磨くだろうし。

教育としての英語は、そんな感じで良いと思うんだよなあ。