思想の板挟み
「どの教育方法が…」と言うつもりはない。
「子どもの幸せ」が教育のゴール地点だし、きっとどの教育も行き着く先はそこなのは重々承知している。
でも、そこに辿り着くまでの手法が、「本当にそれでいいの?」と思えるものがある。
考え方・価値観の違いが出るのも教育だからそれは仕方ないことだ。
例えば一つの山の頂上へ辿り着く方法は、
手足だけを使って自力で登る人もいれば、いろんな器具を使って登る人もいる。
サンダルとラフな服装というワケありな格好で苦労して登る人(これは2週間前のぼく自身の経験談)もいれば、ヘリコプターを使って楽に到着する人もいる。
ゴールは「頂上へ辿り着く」だから、
方法に関しては誰も何も言わない。
それぞれの方法があるし、「まずは私がどう辿り着くか」が第一に来る。
ヨソはヨソ、ウチはウチ
なのである。
だけど、教育に関して言えば、
教師の存在は「多くの子ども」の将来に関わってくるから、
ぼくのなかではどうもそのヨソはヨソ、ウチはウチ思考ができないのである。ゴールは一緒のはずなんだけど、考え方が違うがゆえ、生じてしまうなんだかもどかしい不満が一つ。
あと不満がもう一つ。例えば、ぼくみたいな『』を信じてる者が、いざ教育現場に立ってやることと言えば、もちろん『』の実践。
今のところ、現場の雰囲気次第だが、「最悪」じゃない限り、一発目から導入するつもりであある。
「子どもの幸せ」を唯一実現できるのは現時点では『』しかないと思っているし、一刻も早く、という焦りもあるし。
だからと言って、現場の非実践者に「ほら!あなたも!やれ!」と強要するつもりは毛頭無い。
こんな変な教育に興味を持ってくれた人にだけ、伝えるつもりでいる。
ぼくはそんなスタンス。
でも、ある教育(ゴールは一緒だけど方法が180度違う)が、強制的に地区レベルで、「やりなさい」と押し付けてきたらたまったもんじゃないなぁと思った。それも「全校で」という条件付きで。
ゴールは一緒でも、そこに辿り着くまでの道のりが学術的にも臨床的にも、どうも納得がいかない実践を強制されたら…と考えるとムシャクシャして自我を失いそうだ。
この話が例え話かどうかはご想像にお任せしますが、なくはない話ですよね。
「こんな教育にひれ伏すのかぼくは…」と、イライラしてしまったのは一昨日のある講座での話。
とは言っても、まぁ、誤魔化すことはできるでしょう、人の目(視察団や同校の教員からの)を盗んで。
その実践:『』=6:4or8:2くらいでなら、ズル賢いぼくならできる。
でも、それはフルじゃない。キメラみたいな教育だ。
なんなら、余りにも考え方が違うもんだから、お互いの良いところが相殺されてしまい、良い方向には絶対向かないだろうな、と思う。
一昨日からそんなくっだらないことを考えてしまっている。
現場に立たないとわからないんですけどね。
でも万が一その場面に直面したら、その時は…。
制限で雁字搦めになるくらいなら、 その制限のない場所へ身を移すか、創るか...。