理想だけ語らせてくれ
『学び合い』のことを説明するとき、
ついつい
「『』(ニジュウカッコ)はー、」
と言ってしまう。
『学び合い』(マナビアイ)とは呼ばない。
そのたび、話し相手にもよるんですが、
「??」という反応をされてしまう。
で、後者の方で言い直す。
なぜ、そう呼ぶのかはわからない。
自分の周りの人(『』界隈)でそう呼ぶ人が多いわけではない。
文字数的にも言いやすさ的にも後者の方が言いやすいはずなのに。
あれか、ぼくの性格のことだ、きっと大多数のみんなと同じ呼び方をするのを避けるためにそう呼び始めたに違いない。
みんながマナビアイと呼ぶからあえてそうしたんだ。
なんともぼくらしい。
話は変わって、、
いきなりここで話をぶっこむが、
個人的には、「あれはOO教育で、これがXX的授業」のように、
『』が他の教育と区別されないのが理想。
説明が難しい。なんというか、「これが『学び合い』です」と名前が共有されているのではなく、考え方や雰囲気がすでにみんなに共有・浸透されている、そんなイメージ。
つまりは、自然と根付いているのが望ましい。
ここまでくると、『』の考え方が完全に広まっている状態なので、
「1+1=2は常識でしょ?」
とか
「1日は24時間である。」
というレベルの当たり前に値する。
宗教に近いかもしれないなこれは。
でも、そこらじゅうにある胡散臭い「一人も見捨てられない世界」を売りにしてる宗教とは違う、しっかり論理だてられた考え方だから、悪くないと思うんだが。
宗教というより、
人としてどうあるべきかが詰まった考え方
だから、責められる筋合いはない。
そんな話でした。