孤独という闇
そういえば今日はこんなツイートをしました。
『学び合い』では子どもたちの闇を見ることになります
— こうだい (@canewland) 2019年10月10日
中途半端なAL(教師が構成したグループ学習)も然り。個人的には、後者の方が見ている側としてはキツイ。「そもそもなぜ決められたグループで?」の説明を理論立てて言えない。でも前者なら授業の最後にその「闇」をぼくが嫌う理由を理論的に語れる。
文字数の関係で言いたいことを十分に書けなかったので、
説明がてら、ブログに書いてみます。
昨今、AL(アクティブ・ラーニング)が形骸化されつつありますね。
たぶんそれはほとんどの学校もそうだと思います。
「なるべく座学から離れればいいんでしょ!」
という認識がそうさせているのでしょう。
だから、例えば、英語の授業であれば、
先生がアクティビティとしてゲームを考えて、授業中に子どもたちにグループを作らせて、「じゃあみなさん、始めようか!」ってなるALあるじゃないですか。
あれって、あの空間には、子どもたちにいろんな意味で「自由」は与えられていないから、すんごいぎこちないんですよね。
もちろん運よく(?)、良いメンバーで構成されてウハウハで楽しいグループも生まれるでしょうけど、そうじゃないのもあります。
「あぁ..このメンバーか。やりにくいな。」
という雰囲気がどこか漂っているそんなグループ。
すんごいどんよりしたそんなグループ。
ぼく自身、学生時代そう思う人間でした。
あそこにも人間関係面で闇があります(被験者のぼくはわかります)。
あれって、実は『』の中で見かける「子どもたちの闇」より
きつくて辛くて悲しいです(被験者のぼくはわかります)。
そしてそれを見ている側としても、結構きついです(被験者のぼくはだからこそわかります)。
もうあれって、子どもにとって完全に逃げ道が塞がれた状態じゃないですか、教師が結局その授業を牛耳っているから。その時間を支配してるから。
与えられた人間とだけやり過ごすのみ、なんです。
『』だったら、「全員達成」という鉄則があるから、
孤独を、いわゆる「闇」を、なくすことができる。
だってそれ(孤独)が生まれないように求めているから。
(※『』では、子どもたちが一人でやることは全然OKです。全員達成できるならですが。けど、孤独は違います。孤独には必ずしも「一人でできる」が内包されていない。まわりの人間による「見捨てる」が関わっているとぼくは考えています)
そして、それが望ましい状況ではないことを、授業の最初や最後に語れる。
でも、ああいうゲームには、それがない。
傍から見たらルールに沿って子ども達同士関わっているように見えるけど、違うんですよ。
ぼくみたいな人間は、簡単なことでさえ、
心理戦、駆け引き、選択で大忙しです。脇汗冷や汗すごいです。
ぼくだけに限らず、この心情をわかる人はわかるはずです。
でもこれは鈍感な人・非体験者だとわからない。
子どもは賢いから、演技しますしね。カモフラージュしちゃうんです。
「これをやったらどう思われるかな」
「うわぁ..みんな見てる。絶対OOOって思ってるなぁ」
そういうゲーム・アクティビティ中は、そんなことばかり考えてました。
あれは筆舌し難いのだけど、独特な孤独があるんですよ。
奇妙な空間に閉じ込められているから、
誰にも助けを求められないし、気まずい重圧がすごいし。
なんだろ、もしこの状況が変わらないとしたら(教師が方針を変えない限り)、終わりが見えない孤独がそこにあるんです。一方で、『』は、まだ終わりが見えます。
そういう意味でも、下手にALやるくらいなら『』やったほうがいいよなぁ
と改めて思った。