孤独という闇

 

そういえば今日はこんなツイートをしました。

 

文字数の関係で言いたいことを十分に書けなかったので、

説明がてら、ブログに書いてみます。

 

昨今、AL(アクティブ・ラーニング)が形骸化されつつありますね。

たぶんそれはほとんどの学校もそうだと思います。

「なるべく座学から離れればいいんでしょ!」

という認識がそうさせているのでしょう。

 

だから、例えば、英語の授業であれば、

先生がアクティビティとしてゲームを考えて、授業中に子どもたちにグループを作らせて、「じゃあみなさん、始めようか!」ってなるALあるじゃないですか。

あれって、あの空間には、子どもたちにいろんな意味で「自由」は与えられていないから、すんごいぎこちないんですよね。

 

もちろん運よく(?)、良いメンバーで構成されてウハウハで楽しいグループも生まれるでしょうけど、そうじゃないのもあります。

「あぁ..このメンバーか。やりにくいな。」

という雰囲気がどこか漂っているそんなグループ。

すんごいどんよりしたそんなグループ。

ぼく自身、学生時代そう思う人間でした。

 

あそこにも人間関係面で闇があります(被験者のぼくはわかります)。

あれって、実は『』の中で見かける「子どもたちの闇」より

きつくて辛くて悲しいです(被験者のぼくはわかります)。

そしてそれを見ている側としても、結構きついです(被験者のぼくはだからこそわかります)。

 

もうあれって、子どもにとって完全に逃げ道が塞がれた状態じゃないですか、教師が結局その授業を牛耳っているから。その時間を支配してるから。

与えられた人間とだけやり過ごすのみ、なんです。

 

『』だったら、「全員達成」という鉄則があるから、

孤独を、いわゆる「闇」を、なくすことができる。

だってそれ(孤独)が生まれないように求めているから。

(※『』では、子どもたちが一人でやることは全然OKです。全員達成できるならですが。けど、孤独は違います。孤独には必ずしも「一人でできる」が内包されていない。まわりの人間による「見捨てる」が関わっているとぼくは考えています)

そして、それが望ましい状況ではないことを、授業の最初や最後に語れる。

 

でも、ああいうゲームには、それがない。

傍から見たらルールに沿って子ども達同士関わっているように見えるけど、違うんですよ。

ぼくみたいな人間は、簡単なことでさえ、

心理戦、駆け引き、選択で大忙しです。脇汗冷や汗すごいです。

ぼくだけに限らず、この心情をわかる人はわかるはずです。

 

でもこれは鈍感な人・非体験者だとわからない。

子どもは賢いから、演技しますしね。カモフラージュしちゃうんです。

 

「これをやったらどう思われるかな」

「うわぁ..みんな見てる。絶対OOOって思ってるなぁ」

 

そういうゲーム・アクティビティ中は、そんなことばかり考えてました。

あれは筆舌し難いのだけど、独特な孤独があるんですよ。

奇妙な空間に閉じ込められているから、

誰にも助けを求められないし、気まずい重圧がすごいし。

なんだろ、もしこの状況が変わらないとしたら(教師が方針を変えない限り)、終わりが見えない孤独がそこにあるんです。一方で、『』は、まだ終わりが見えます。

 

そういう意味でも、下手にALやるくらいなら『』やったほうがいいよなぁ

と改めて思った。